第十日:トゥルーエンド

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いよいよ最後の日がやってきた。



 いい年こいてサンデーを読んでるオヤジです。先々週のサンデーを読んで、この漫画の全巻をそろえてみる気になりました。
 理由は、ハムスターネタがつぼに来たからです。



一日目に書いたように、ハヤテのごとく!という作品は僕にとってはこの三行、七十八文字で表現できる物のはずだった。しかし、今回の十日間だけでも、すでに数百行、数万文字を費やしている。僕はハヤテのごとく!という作品はそれだけの価値がある作品だと今は思っている。


さて、今日までハヤテのごとく!という作品の要素と仕掛けについて語ってきた。今日はそれをまとめ、ふまえた上で、この作品の持つ可能性について論じるのであるが、その前に僕がなぜこの物語を高く評価するのかということをもう一度書き留めておきたい。


そもそも僕はなぜこの作品を買って読もうと思ったのか。今までは一発のギャグを理由にして話を進めていたが、それだけではないような気もしている。心の、頭の深層部分でこの作品の本質的なポテンシャルを認識していたような気がするのだ。そして九日目にも書いたように、この作品は一般的に見ても新人漫画家の作品としてはヒットしているようだ。それは、深層部分で僕と同様にこの作品を求めている読者がいるということなのではないだろうか。
また、2chに漫画の評価をそれぞれ一行で済ませるスレッドがある。そこでハヤテのごとく!は高分散の常連であるようだ。こういう「何かがある」作品というのは評価が分かれやすい物である。「何か」に、それが深層レベルであってもたまたま気づいてしまい、それが気に入った人は高評価をし、まだ気づいていない人、あるいは気づいたことに生理的とも言えるような嫌悪感を持った人は低い評価をする。中間的な評価をする読者よりも両極端な評価をする読者の方が多くなる傾向になると思う。


僕がこの作品を読み返すきっかけになったのは「違和感」であった。もしかするとその「違和感」は、三日目に述べたように大変失礼な物言いではあるのだが作者の構成が稚拙であったことが原因かもしれない。実際に四巻以降、その違和感を感じることは少なくなってきている。さらにいうと、そもそも僕がブログというか日記を書き始めたのは別の目的があったからで、あの日、2005/8/20まではこの作品のことを書くことになろうとは夢にも思っていなかった。このような文章を長々と書くことになったのはものすごく小さい確率が積み重なった偶然でしかない。




さて、この作品には、飛び抜けて奇抜な設定も、巨大で最凶な登場人物にとって共通となる敵も、主要登場人物が力を合わせ実現させなければならない目的も用意されていない。登場人物の誰からも憎まれるような悪人としてハヤテ君の両親が存在するが、今のところ物語には登場する気配がない。用意されているのは登場人物それぞれの夢や目標である。共通の目的のために他の登場人物の踏み台になることを選ぶキャラクターは存在しない。踏み台になるのは自らの進む道、例えば「大事な人を守ること」のために必要な場合だけである。


ここで、今まで挙げたこの物語の「主題」となり得そうな要素を列挙してみよう。

  • 成長
  • 幸福
  • お金という物の存在意義
  • 別の世界との出逢い

ここで挙げた要素のうち、どれかが主題なのか、あるいは全てが混在したものが主題なのか、さらに、今はまだ明かされていない(あるいは僕が読みとれていない)別のテーマが用意されているのか。それは「神」ならぬ僕にはわからない。だから想像するしかない。そして六日目についに思い至った。これらの要素とは違うものがテーマなのではないだろうか。あまりに当たり前すぎて気づかなかった主題である。


さて先ほど挙げた要素に戻ろう。列挙された要素をみて思うのは、そのどれもが、読者の多くがもしかしたら実生活で直面するかもしれないと思えるようなテーマであるということである。もちろんこの作品は漫画として構成しなければならないのでデフォルメはされている。しかし、描かれている内容を突き詰めて考えていくと、普遍的で、別のサイトでも書かれていたように「哲学的な」要素を数多く含んでいるのである。


この作品が、今の状況で一定の人気が得られた場合、おそらく主人公たちは、ハヤテのごとく!という作品の世界、その中でも主に五日目に僕が名付けた「ナギの世界」の中での「日常の生活」を営みつつ、淡々と物語の終わりに向けて進んでいく。これは四巻の作者の後書きでもほのめかされたことなのでその予想が当たっている確率は高いであろう。そのような物語を週刊連載という枠組みの中で人気を維持しながら進めていくことは非常に難しいことである。もちろん、大きな展開で読者の興味を引き、誰もが驚くような結末を用意することにも非凡な才能が要求されるが、淡々とした日常を描きつつ読者の興味を失わせないように物語を構成する方が、格段に難易度は高いと思う。しかも、二日目に述べた漫画としての枠組みである「萌え」「ギャグ」「ラブコメ」の要素を維持しながら展開をして行かざるを得ないとすると、この物語が完結するのは奇跡に近いのではないかとすら思える。
この作品は、本来、ある程度の分量をまとめて発表する方が向いている。毎週多くても二十ページに満たない紙数で進めて行くにはあまりにも内容が深すぎる。だから単行本やバックステージでこれからもその穴埋めをする必要がある。四巻を読んで改めてそう感じた。


畑健二郎さん本人がこの難しさを当初から認識していたかどうかはわからないが、担当の編集の方などの意見から、おそらくは感じていたことであろう。しかし、それでも彼はこの物語に挑戦をしている。


志が高いのである。


そして、畑健二郎さんはこの作品、あるいは物語のために、「出来る事は全てやる覚悟で挑」むと宣言をしている。これは並大抵の覚悟ではないと僕は思う。
読者は勝手だ。作者ががんばればがんばるほど、それを受け入れることを拒否し揶揄する人すら出てくる。それでも彼はこの作品にさまざまな要素を取り込み、物語を継続させる道を模索するであろう。そして彼は、畑健二郎さんはこの物語を完成させるという奇跡を起こすように思えてならないのだ。


少し将来の話をしよう。仮にこの作品が僕の言うように大ヒットをしたとする。予想されるのは、彼が「どうせハヤテだけの一発屋」と揶揄されることである。僕自身も、畑健二郎さんがこの作品に対して「出来る事は全てやる覚悟で挑」もうとしている以上はその危惧をぬぐい去れない。でも、世の中には、その「渾身の一撃」を夢見ている人たちがたくさんいるのである。さらに、その一撃を加えることを夢見ることさえせずに一生を終えていく人々の方が圧倒的に多いのである。だから僕は畑さんの姿勢は間違えていないと思う。むしろ、この作品の難易度を考慮すると、そのくらいの覚悟で挑まないと完結させることは不可能な物語なのだと思っている。


物語としてハヤテのごとく!をとらえた場合には一話一話の感想は無意味な物に近くなる。でも、その一話一話でファンを納得させないと発表の場を失うこととなる。しかし、全体を俯瞰すると、物語としての姿を見せなければならない。そういうことにも彼は挑戦している。とりあえず自分の作品が発表できればいい。売れてきたら少しずつ自分が本当に描きたいこと、やりたいことをやればいい、そういう心構えではないのだ。自分の力で、あるいはスタッフの力を借りて練り上げたこの非常に難しい物語に挑戦し、できることは何でもやりながら、でも思い描く結末にたどり着くことを最後まであきらめない。そういう困難な作業に彼は今取りかかっているのだ。


志が高いのである。


一日目に書いたことだが、僕は、いつか漫画という表現手法を使ってものすごい作品が生み出されるはずだと信じて、発表されている中でごくわずかの作品にしかすぎないが漫画を読んできた。その結果、今、このハヤテのごとく!という作品に出会うことができた。そして、その作品は、僕が想像していた以上のポテンシャルを持ち、この一つの作品で漫画というものの価値全体をさらにもう一段高める可能性すら持っている作品であった。


この作品の最大の特徴は、その上質かつ希有な物語性である。僕がこの作品を読んでそれに気づいたとき、物語を愛する読者達の間で間違いなく騒ぎになっているはずだと思っていたくらいだ。気づいたときにその人を興奮させるほどの豊かな物語性をもっている。しかしそれだけではない。読者を取り込み、物語世界に気づかせる仕掛け、それは三日目に述べた既視感と違和感という手法である、それを使っている。また、複雑かつ高度な物語を完成させるために、七日目に述べたような、漫画と言うよりゲーム的な手法で構成を管理していると思われる。そしてマルチエンディングという、これもゲーム的な発想の手法も用いている。その手法にはもう一つ見えない効果がある。この作品を物語として読む読者に対しては、分岐先を多数用意することにより、物語としての終わりがなにであるのかの予想を難しくし、この作品への興味を維持してもらう効果もあるのだ。


しかし、それでもこの作品は明らかにただ一つの結末に向かっている。それが作者、畑健二郎さん自身が語ったトゥルーエンドである。現時点でもこの作品は複雑で高度な物語性を兼ね備えているが、まだ明らかになっていない要素も多々あるように思われる。八日目に述べたようにそれらはすべてトゥルーエンドを実現するためにあらかじめデザインされているのである。また作品の中で描かれる「イベント」も、全てはトゥルーエンドに向かう過程として必要なのである。


全てがトゥルーエンドのために。


それがこの作品の本質の中の本質である。


描ききるために、多彩な要素、手法、仕掛けを用意しているのである。また、漫画の場合に重要になる読者からの感想、意見も、それら全てがこれから使われていく。読者の支持を得ながらトゥルーエンドに持ち込むにはどうすればいいのか、あらかじめデザインされた物をどうアレンジすればいいのか、あるいは一部変更する必要があるのか。それを判断するために我々の言葉もおそらくは使われるのである。




さて、いささか感情的になりすぎているので話題を変えよう。


僕はこの作品が二年後に大ブレイクすることを予想している。
その根拠としての社会的状況についてもまとめておきたい。

三日目にも述べたように、その正体がはっきりわかっているわけではない。しかしこれは大ブレイクへの一つの要素である。今、社会の中で、高橋留美子さんの作品を読んで影響を受けた世代が有る程度の決定権を持っていると思われる。CMやゲーム、ドラマなどで改めて高橋留美子さんの作品が唐突とも思われるような登場の仕方をしている。
ハヤテのごとく!という作品は、他のサイトや2chなどの掲示板でも高橋留美子さんの作品との奇妙な類似点は触れられている。ということは、この作品が、その決定権がある人々にも受け入れられる可能性があるということに他ならない。二年後というタイミングが微妙であるのだがそのころにも今の状況は大きく変わらないと予想している。

僕が予想する2年後には大きく状況が変わっている可能性があるが、現状ではもっとも大きなブレイクのための要素なので取り上げておく。この作品がもつ、お嬢様、メイド、執事、パロディという記号性は非常にわかりやすい。それが故に受け入れられない人も多くいると思うが、紹介する方としては非常に取り上げやすいと思われる。
さらに、物語性という一般的にも取り上げやすい要素をもつことが明らかになればメディアなどへの露出度は高まることが予想される。

  • 編集、出版サイドのサポート

四日目に述べたときメモファンド事件が論拠となる。どんなに優れた作品であっても、まずターゲットとする市場で商業的に成功しないとその先にはなかなか進めない。そして商業的に成功するためにはある程度のプロモーションが不可欠である。おそらくこの作品には、編集、出版サイドからもある程度の期待を持たれている。そのため出版側の適切なプロモーションによるサポートもそれなりに得られるのではないかと考えている。


僕が予想する二年後というタイミングは、この作品が物語としての素顔をあからさまに見せるのがそのころではないかという予想からである。おおよその作中時間を想像してみて頂きたい。二年後にこの作品の日付はいつになっているのかを。普段漫画も小説も読まない、または一度だけさらっと読んで消費する読者にも、この作品のすごさがわかるような状態で提供できるようになるのは早くても二年後なのではないかと思っているのだ。


そして、大ブレイクをした時、この作品が使っているパロディは全く別の意味を持ってくる。三日目に述べた、パロディの「異化」の効果が発動するのだ。
さらに、今まで漫画やアニメ文化には興味を持っていてもその世界に一種の恐怖感を持った人たちが物語性という切り口で紹介をされていればこの作品に触れやすくなる。するとその人たちの中で、この作品で多用されているパロディや漫画、アニメを使ったギャグが「異化」の効果をもたらす。当たり前のことが漫画やアニメ、ゲーム好きな人、いわゆる「オタク」の言葉で説明されることで、それがあたかも新しい概念かのように思わせる効果があるのだ。
パロディには、もう一つ商業的な意味もある。
作中でナギちゃんが放ったあの有名な言葉を例にしよう。第二十九話(三巻九話)

いいかよく聞け!!お前には決定的に…ガン○ムが足りていない!!

大ブレイク後、この言葉を見てナギちゃん、またはこの光景を傍観している人ではなく、その言葉を年端もいかない女の子に言われてしまったお兄さんの方にマインドが近い人がこの台詞を読むとする。「何を言っているかわからないけど状況には似合わず力はいっているなぁ」と思う人がほとんどだと思う。でも、中には、極々わずかだと思うが、このパロディというかギャグというか魂の叫びらしき物の原典に興味を持ち、「五回はみろと言われているくらいなら『逆シャ○』と『ター○A』とやらは面白いのだろうか。そもそも実在の作品なのだろうか」と興味を持つ人がでる可能性がある。そして「もし実在するのなら見てみようか」と思う人もいるのかもしれない。昔と違ってインターネットがある。調べる気になれば簡単に調べることができる。ちょっとマウスをクリックすれば購入することができてしまう。そしてその中に実際に見て気に入ってしまう人も、さらに極々わずかだとは思うが出てくるのではないか。その比率は微々たる物であっても母数が大きければ決して馬鹿にできない数になるであろう。
パロディの原典に興味を持った人が、作中伏せ字で紹介されている別の作品も読み始めるかもしれない。この作品には、萌え、漫画、アニメ、ゲームという現代の日本を代表する大衆文化の入り口としての役割も与えられる可能性があるのだ。


その二年後までに、そして今も、この作品の物語としてのポテンシャルに気づいている人は、僕以外にもたくさんいると思う。しかし、今現在は、インターネットの世界でいろいろ検索をしてみてもハヤテのごとく!の物語としての力について詳細に書いてあるサイトは見あたらない。検索の方法がつたないからかもしれない。でも他に見あたらないからこそ僕はこの文章を書いている。そして、現在のその状況から類推して大ブレイクにはもう少しだけ時間が必要だと考えている。


ただ、時代がこの作品に味方しているような感覚も持っている。その場合はブレイクが早まるかもしれない。しかし、それはこの作品にとって必ずしも幸せなことにはならないと思う。「早すぎるブレイク」が発生するとこの作品の「本質」が伝わらないうちに消費されてしまう危険がある。あくまでも「本質」が伝わる状況での大ブレイク。それがこの作品の社会的な価値を高めることになると考えている。僕が今この文章を書いたことの理由の一つには、早すぎるブレイクをした時に、ここを見て「本質」があるのではないかと疑う人が一人でもいればいいと願う気持ちも挙げられる。実際にはこのサイトを読んでくれる読者は少ない。この十日間に限ってはそれなりに多数の方が閲覧してくれたが、おそらく実売二十万部(百一万部を四巻で割り五万部が在庫していると考えた)に達するこの本の読者数から考えれば微々たる物だ。しかし万一本質が読者に知られないままにただ消費されてしまったらと思う。それにはあまりにも惜しい資質を持つ作品なのだ。




大ブレイクの先にある物についても蛇足とは思うが触れておきたい。
決意表明で書いたが、この作品は「社会現象的」ヒットをする可能性を秘めている。それは、NHKの7時のニュースで取り上げられたり、一般週刊誌の中吊り広告に「ハヤテのごとく!」の文字が躍ったりする状況だ。想定しているのは今で言うと「ハリー・ポッター」の様な状態である。
僕がこの作品に気づいたとき、そういう状況が頭に浮かんだ。だからそうなって初めて僕は「思った通りだ」と僕はつぶやくことができる。
個人の嗜好に依存している部分が大きいが、物語性という一点ではハヤテのごとく!ハリー・ポッターよりも素材は上であると思っている。ハヤテのごとく!は前に述べたように、基本的に登場人物たちの日常を元にした物語であり、そこには共通の敵も目標も存在していないからである。物語全体を貫くイベントが終わることによる物語の完結よりも、それまでの日常の中で起きた些細なイベントが関連し積み重なり、ある終わりへと向かっていく物語の完結の方が、最後に読者の心に響くのである。読者は作中人物に感情移入し、またそれを読んでいた自分がその時代におかれていた状況を思い出しながら作品世界に浸ることができるのである。
そう、この物語は作品内での時間の流れと、実際の時間の流れの違いも利用して深みを増しているのである。リアルタイムでこの作品を読んでいる、ハヤテ君やナギちゃんと同じ世代の子供達が、もしこの作品を読み続けるとすると、完結するのはもう大人になってからである。この手法は他の作品でも多々見られるが、この作品でも有効である。
その時にゆっくりと成長していった登場人物達と、自分自身の成長とを自然に比較しながら味わうことができるのである。これは小説ではなく、雑誌に発表される漫画という細切れで作品が提供されるメディアの特性ならではの物である。


ハリー・ポッターを引き合いに出したのでハヤテのごとく!とこの世界的な大ヒット作との根本的な違いについて触れておく。ハリー・ポッターは良質なファンタジーであり、そこには西欧的な貴族社会、宗教観という文化が下敷きとして存在すると思っている。それに対してハヤテのごとく!の場合は何度も触れているように下敷きとしているのは漫画やアニメ、ゲームなど、日本のいわゆるサブカルチャーである。それは日本人には極めて受け入れやすい物だと思われるが他の国、他の文化の中で育った人にはどのように受け入れられるのであろうか。ただ、我々はハリー・ポッターの西欧的な文化を受け入れている。もしかすると他の文化的背景を持つ人にとって、僕たちが感じている、ハリー・ポッターで描かれている「『ここ』とは違う別の世界」の文化のようなものをハヤテのごとく!から感じてくれるのかもしれない。そしてパロディの「異化」の効果は最大限に発揮されるかもしれない。そうなると、そもそもこの作品が上質な物語であるが故に僕ですら想像もできないような展開を見せる可能性もある。
繰り返しになるが、個人の嗜好としてはハヤテのごとく!の物語性はハリー・ポッターのそれを上回っていると感じている。しかし、冷静に考えるとこの作品が別の文化的背景を持つ人々も含めて、全世界的に受け入れられ全世界的にヒットするかというと、可能性はゼロではないが限りなく低いと言わざるを得ないと思う。


ところで、実際に社会現象化してしまった場合、トゥルーエンドを迎えられる確率が高まるのか。僕は逆に難しくなるのではないかと想像している。当初想定している以上の読者を抱えることにより、物語を進める上での制約が生まれてしまうのではないかと危惧している。




ブレイクにはこの作品の実力意外の要素があるということを書いたが、それは全てこの作品の持っているポテンシャルが他の物語を凌駕しているという前提があるから成り立つのだ。この作品は、読者の生き方を変える様な力を持つ物語性を持っている。また、漫画というメディアの中で一時代を築き、他の作品にも影響を与え、さらに他のメディアにも影響を与えるような力を内包している。


一読者としてはずっと読み続けていたい。
でもトゥルーエンドも読みたい。
でもこの作者の他の作品も読んでみたい。
そういう屈折した気持ちにさせるだけの作品である。


寄り道をするが、ここまで書いて、ハリー・ポッターのラストシーンはもう書き上がっているという話や、アガサクリスティがカーテンを死後に発表するように指定していた話が思い出されてきた。漫画ではそれは普通できない。そこまでたどり着くかわからないし、どういう形でたどり着いているかもわからない。さらに漫画の要素の一つである「絵柄」はだんだん変わっていく物なので、特に絵柄が安定していない新人漫画家の場合は、いつ発表するものなのかわからない原稿を書きためておくこともできない。
トゥルーエンドを描くのは、そのタイミングになってからとせざるを得ない。


先を急ごう。


トゥルーエンドはいったいどういうものなのか。僕が思うように、優しいけれどたまらなく切ないものなのか。それはわからない。そして、それはすでにデザインされている。予想することにも意味はない。ボーイミーツガールならぬ、ガールミーツボーイ的なナギちゃんとハヤテ君の恋物語という視点でのこの物語がどう完結するのか、そしてそれがトゥルーエンドと関係しているのか、それすらわからない。もしかするとナギちゃんの恋の行方すらこの物語では枝葉の末端に位置されてしまうのではないかとすら思えてくる。


最終的にトゥルーエンドを選択するかどうかの判断は、畑健二郎さんに委ねられている。


うる星やつらのように最後の十話程度なのか、最終話なのか、最終話の最終ページなのか、あるいは最後の一コマなのか、どこで最終的にトゥルーエンドに向かうか否かの判断が必要になるのか。それもわからない。
いずれにしても作者にとってそれを書くというのは、想像を絶するほど勇気がいることではないのだろうか。
今まで積み重ねてきた物の全てがそこに詰まっているはずである。もし、読者に受け入れられなかったら・・・より多くの読者に受け入れられる可能性が高い別の結末の方が良いのではないか。話を終わらせずに続けた方が良いのではないか。いろいろなことが胸に去来するであろう。そしてトゥルーエンドではない物語の結末も何種類か事前に準備されている。作者がトゥルーエンドを選ぶ理由は、ロジカルに考えればおそらくどこにもないのである。しかも、先ほど書いたように、その描くのに大きな決断が必要な結末は事前に準備することはできないのだ。少なくともある程度物語が進み絵柄が安定するまでは、たとえ用意しておいたとしても読者に受け入れられない物になってしまうのだ。
おそらくは、本当に物語が終わるそのタイミングでトゥルーエンドを選ぶかどうかの判断をしなければいけないのである。そして、その時、もし彼が六日目に述べたように「読者の視点」を持ち合わせていたらどうなってしまうのか。作者としての喪失感、読者としての喪失感、その二つが同時に襲ってきたら、いったい人間はどうなってしまうのか。読者としての喪失感にすらどう立ち向かえば良いか答えを持っていない僕には全く想像ができない。


でも、もし書くことができる状況におかれれば、畑健二郎さんはトゥルーエンドを選ぶと僕は感じている。信じているのではなく感じている。
トゥルーエンドにたどり着くまでには、用意されたイベント、エピソードをこなし、隠された設定も明らかにするという作業が必要であろう。
人気が落ちたら終わりという厳しい週刊連載の中で、もしその作業を全てクリアし終える事ができたのなら、彼は心の中、あるいは設定資料の中ではじめから暖めていたその結末を書くのではないかと僕は感じている。


おそらく、畑健二郎さんが用意しているトゥルーエンドは、読者にとっても読むことに勇気が必要な物ではないかと想像している。迂闊に人前で読むとかなり恥ずかしい状況に陥ってしまうようなものだ。そして、この作品に深く入り込んだ人ほど、しばらくの間、何も手につかないくらいの読後の喪失感を感じるであろう。
でも、もし彼がその道を選んだのなら、僕たちも勇気を持ってそのページを一枚一枚めくっていこう。そのコマを一コマ一コマ読んでいこう。そこに至るまでの、作中の、そして現実の思い出を回顧しながら。




長かったこの話ももう少しで終わりを迎える。


僕はなぜこんな物を書いているのだろうか。今まで書いた理由だけなのだろうか。何年後かに自慢したいから。早すぎるブレイクの時に読んでもらいたいから。それだけではなかった。
僕は、この、おそらく歴史に残る作品を生み出す作業を手伝いたいのだ。非常に難しい作業をしている畑健二郎さんを手伝いたい。子供が思うような願いである。でもそれはかなわない。絵心はない、創造力もない。年を取りすぎている。でもなにかしたい。もし僕の能力がこの物語を完成させる役に立てるのならば、この物語に人生を預けてもいい。その思いの代償行為がこの文章になっている。


今回の文章の中で僕も一つだけ仕掛けを施した。畑健二郎さんが用意している物に比べれば、全く子供だましで、ここに至るまでにみなさん気づいているとは思うような代物だ。なにかを作りたい、その思いの屈折した表現方法である。
その仕掛けが発動する日がいったいいつになるのか。それはわからない。物語の中盤なのか終盤なのか、あるいは最終局面なのか。その時がやってきたら、おそらく今回のこの文章に書かれていることはある程度正しかったのだなと思うことができるのであろう。




さて、それでは六日目に思い至った結論と八日目に気づいたある事実について述べよう。そもそもこの物語のテーマ、主題はいったい何なのか。そしてその根拠。その問題についての現時点での僕の答えを書こう。


それは今まで僕の文中で何度も書いてきたことだ。畑健二郎さん自身も何度も書いていることだ。あまりに、あまりに当たり前なことで六日目を書き終わるまで気づかなかったようなことだ。


ハヤテのごとく!ではこの作中に構築された虚構の世界、主に「ナギの世界」での日常の中で、登場人物の夢や幸福、価値観が時とともに変化していく様をただただ淡々と描かれ続ける。そしていつの間にか時の流れの中で「不幸な子供達」は成長していく。しかし、徐々にではあるが着実にあらかじめ決められたあるトゥルーエンドを目指していく。


勝手で独りよがりな思いだと承知の上で述べるが、僕は三巻の時点で、この作品の物語としての流れをある程度想像することができていたのではないかと思っている。普通先が見えればその作品への興味は急速に薄れる。それはその予想が正しいか間違えているかに関わらずだ。自分が思っている方向に行くかどうかだけが関心事項となってしまうのだ。ところが、この作品の場合は見切れたと思えば思うほど作品への興味が増すのだ。なぜか。いったいなぜなのか。そこにテーマが隠れている。そう思えてならないのである。


作中時間の2004年12月24日、あるいは現実世界と区別して1年12月24日と表現しよう、物語が始まったその日から、あらかじめ決められたある日、予想はしているが今はまだそれを言うのは早いある一日までの間、「ナギの世界」「歩の世界」「ヒナギクの世界」あるいはそれ以外の世界、そこで淡々と進んでいく日常、それを描ききることこそがこの作品のテーマなのではないだろうか。恋、成長、借金、夢、そして幸福、それらの要素、さらに複雑かつ重厚なキャラクターの設定も、この物語に参加するまでに登場人物達が過ごしてきた時間も、ゲームをヒントにしていると思われる巧妙な手法も、それらは全てあらかじめ決められている「その日」にトゥルーエンドを迎えるために用意されている。登場人物も、作者も、そして読者もトゥルーエンドを目指していく。しかしそこに到達することがテーマなのではない。トゥルーエンドに至る年月、時の流れを描くこそがテーマなのだ。


そう、この作品の、物語のテーマを強いて言葉で表現するのなら物語が進んでいくこの作品世界での

  • 「時の流れ」

である。
トゥルーエンドまでの過程、それこそが主題なのだ。平家物語の冒頭を思い起こして頂きたい。諸行無常を表現しようとしているのだ。
そういう作品なのだ。ハヤテのごとく!は。


形のない物、変わってゆく物がテーマなのだ。簡単そうに見えて難しい、誰もができそうで誰もできないことをやろうとしている、そういう作品なのだ。ハヤテのごとく!は。
そして、その難しい作品をこの人なら完成させられるのではないかと思わせる、そんな漫画家なのだ。畑健二郎さんという人は。










最後に、あまりに当たり前すぎる事実について述べよう。




僕が思い至ったこの作品のテーマを頭の片隅に置きながら、僕のこの文中で繰り返し繰り返し書かれているある言葉を思い起こして欲しい。何十回、もしかすると百回以上書いた言葉。










この作品のタイトルを思い起こして欲しい。




















そういうことなのだ。










僕たちは、たぶん、それぞれ別のきっかけでこの物語に出会った。それぞれの思いを抱きながら読んでいる。途中で道を離れる人もいるかもしれない。途中から合流する人もいるだろう。その道がどこに続いているのか、歩いている僕たちにもわからない。今は平坦で、いつでも歩くのをやめることもできるし途中で休むこともできる。
遠くに見える山に気づいている人もいる。もしかするとそこに登るのではないかと思っている人もいる。しかし気づかずにただ歩いている人もいる。
おそらくその先には高い、高い山が待っている。でもそのほとんどの山にはすでに誰かの足跡がある。でも、その高い山々に囲まれて、目立たないけれど実は一番高い山がある。そこには誰の足跡もついていない。
これからどんな険しい道が待っているのかわからない。それどころか目的地がどこかも僕らは知らない。
案内役は畑健二郎さんだ。彼は道を造りながら歩いている。彼が作った道を僕らは歩いている。彼の目的地はもう決まっている。でも僕らには、平地をひたすら歩くのか、どこかの山を目指しているのか、それとも、あの、目立たないけれど誰も登ったことのない山を目指しているのか。そして目指す場所に彼が進めるのかどうか、それさえもわからない。途中で予定を変えるかもしれない。まっすぐ進むのではなく寄り道をしながらゆっくり足を動かしていくのかもしれない。頂上が見え、後一歩と言うところまでたどりついても、天気が悪ければそこに行かずに引き返してしまうかもしれない。
僕たち読者はついて行くしかない。一歩、そしてまた一歩。
もう一緒に歩み始めてしまったのだから・・・


このハヤテのごとく!という作品は、生涯出会う物語の中で、最も心を動かされるものになると思う。この時代に生まれ、この国に生まれ、この作品に出会えた幸運に感謝している。















十日間の最後の文章のつもりで山登りに例えて書いた言葉だ。長い文章の最後の言葉にしようと自分なりに一生懸命考えて書いてみた言葉である。これほど長い文章を書くのは初めてのことだったので、自分の魂を込めた言葉で終わらせたいと思う気持ちはもちろんある。本来そうすべきである。
でも僕の気持ちは伝わらないような気がしてならない。この作品への期待、そして思い入れ。もちろんそれもある。
しかし、もし例えるなら一番近い感情は「恐怖」だ。「恐怖」が一番近い。この物語、この作者が僕は怖い。のめり込んでしまう自分が怖い。この物語に取り込まれ壊されそうで怖い。山登りの例えではその「恐怖」が伝わっていない様な気がしてならない。




やはり、最後はあの言葉しかない。自分の言葉ではないけれど、初めて読んだとき背筋が冷たくなるのを感じたあの言葉。感動よりむしろ恐怖を感じたあの言葉。
結局、何を書いてもあの言葉の前では色あせてしまうのである。あれを超える物は、少なくとも今の僕には書けない。将来的にも書けるようになるとは思えない。
あの文章を読んだ日、畑健二郎さんを「本物」と評した。「牙をむいたハムスター」とも表現した。もし、自分に才能と運があり、自分の書いた創作物を世に出せる状況になっていたとして、あの文章がかけるかというとおそらく書けないであろう。漫画家を目指している人、目指したことがある人はもちろん、小説、絵画、音楽、それぞれの表現手法で自分を表現しようとしている人にとって、この文章は当たり前のものなのであろうか。あるいは、強烈なメッセージなのであろうか。創作を志したことがない僕には想像することもできないことではあるが、一つだけ言えることがある。


読むたびに、比喩ではなく泣いてしまうのである。


僕自身のハヤテのごとく!という作品への思い入れと、作者である畑健二郎さんの思い入れ。物語を考え展開を計算する作者、物語を読み、この先の展開を想像する読者、一読者、しかもそもそもこの作品の読者として想定されていない嗜好をもつ読者であろう僕の勝手な妄想であることは承知している。
それでも、この文章を読むと、実際にはありえないことなのだが、作者である、この物語の「神」である畑健二郎さんの思い入れと、読者である僕の思い入れとがシンクロしているような気がしてしまうのである。もともと思いこみは激しい方だとも思う。でもこの感覚は初めてのことだ。そして今後も無いのではないかと思っている。人はこういう気持ちになることがあることを初めて知った。文章という表現方法でこのようなことも可能なのかと。
引用の範囲を超えているのではないかという危惧もある。それでもどうしても書いておきたい。読む方にとっては全く意味がなく滑稽にも思えることではあるが、電子的なコピーではなく、自分の指で、キーボードをたたき、書いておきたいのだ。


畑健二郎さんのバックステージ Vol49 でのこの言葉をかみしめて、第四巻発売時点での、僕からのハヤテのごとく!という作品の感想、評価、分析、推薦、そして長すぎるファンレターを終えたい。


WEBサンデー サンデーまんが家バックステージ畑健二郎 Vol.49より抜粋

正直なことをいえば連載当初
一年も連載が続けられるとは思っていませんでした。


いえ、僕自身は連載を続けたいとは思っていましたが
なにぶん根がネガティブで
考え方が後ろ向きに前向きなものですから
きっと無理だろうなぁと思っていました。


それが一年……


本当にあっという間の一年でした。


実を言えば
まだ週刊連載をしているという実感というものはありません。


毎週16ページの原稿を完成させるという
『作業工程』に関しては、
仕事の内容が違うとはいえ
アシスタント時代に五年近く
散々やってきたことなので
あまり新鮮さがなかったりします(プレッシャーやら
責任感といった精神面はだいぶん違いますが……)


そして週刊連載を持つことは
自分にとっての遙かなる夢であり
きっと実現しないと思っていた目標の一つでした。


だから自分がその目標に達したと言うことが
いまだに信じられないのです。


毎週思うのです。


週刊連載で漫画を描くからには
もっと絵がうまくならなくては、と。


毎週悩むのです。


週刊連載で漫画を描くからには
もっと面白い話を考えなくては、と。


僕は漫画が好きで
こういうマニアックな性格ですから
相当量の漫画を読んでいるとと思います。


なので自分の実力の程度についても
良く理解しているというかなんと言うか……
よく分かっている……と思うのです。


今のままで良いわけがない。


悩まない日は、一日だってないのです。




面白い漫画が描きたい。
そして、それをより多くの人に読んでもらいたい。


漫画家なら当然持っている欲求を僕も持っています。
そのために今、
自分が何をしなくてはならないのか。


足りていないものは多いです。


それが少しでも埋められたらという想いで
このWEBも毎週更新していたりします。


漫画の連載というのは週刊に限らず
読者に見限られたら、あっという間に終了です。


正直な話この漫画が、
僕が想い描く唯一のトゥルーエンドにたどり着く可能性は
多く見積もっても二割に満たないと思います。


ですが何とかそこまで
読者に見捨てられず、
たどり着けたらいいな……と思っています。


そのために出来る事は全てやる覚悟で挑んでいます。




この連載のフィナーレで
恐らくハヤテが言うであろう台詞があります。


積み重ねた日々の先で
少年が少女に言う一つの言葉です。


今はまだその台詞をハヤテは言うことが出来ませんが
きっといつか言えると信じて……
頑張っていこうと思います。


これからもどうか
応援してください。


よろしくお願いします。


                                                                                                                                  • -

おわり