読書感想文 笠井潔著『サマー・アポカリプス』

サマー・アポカリプス (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

サマー・アポカリプス (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)



本格推理小説です。本格です。本格的に本格です。
富豪の屋敷の中で「不可能」な状況で起きる殺人事件。過去の「事件」。周囲に徘徊する「不審」な人物。示唆される「異端」の宗教と「前近代的」なオカルティズムと「秘宝」。背後に影を落とす現代的な原子力発電所建設問題。
それらが渾然一体となって物語は混迷を深めていきます。




もし仮に俺が何か小説的な物を書くとしたら、やっぱ推理小説を書きたいんですよね。んで、超絶トリックを探偵が華麗に解決する様を書きたい。シャーロキアンと言うほど読み込んでいないけれど、俺にとっての名探偵原体験はシャーロックホームズなのでやっぱそういう妄想をしてしまいますね。
でも、事件解決へのスタンスとしてはホームズ的な立ち位置ではなく矢吹駆的なアプローチをさせたいなぁ。


この作品での名探偵的な立ち位置を占める矢吹駆にとって、殺人事件の解決はあくまでも副次的なテーマであって、彼の関心は当初から別の所にあります。読者にとっての「謎」は、探偵にとっての「謎」ではなく、探偵にとっては「自明」のことです。超絶名探偵物である以上はそうならざるを得ない。だからこそ超絶名探偵なのですから。
材料が与えられた時点で探偵の中では全てが解決していなければならないのですよ。


ただ、それをすぐにばらしてしまっては推理小説にはなりえません。読者は謎を解きたいわけですし、謎が解かれる過程を探偵の周辺にいる人々とともに追体験したいのですから。
探偵の関心は別の所にあって事件の真相にはむしろ無関心、探偵にとっては自明の事であるから故にでもそうでなくてもかまわないけれど、とりあえず無関心であるという設定を作ることによって、超絶名探偵が登場しても物語が成立するようになります。
もちろん他にもやりかたはあるけれど一つの方法としてですね。




この作品を本格推理小説として読んだ場合、不満な所はあります。それは「メイントリック」です。ちょっとこれは無理があるんじゃないかなぁと……。まぁ、推理小説ですから、そして、読み進めればその謎がこの作品のテーマではないということがわかりますからいいんですけれどね、でもちょっと厳しいなぁと……。
いや、ほんと、この作品にとっては「殺人事件」は主題じゃないんですよね。犯人を指摘するというのは過程にしか過ぎず、その結果もたらされるものについてはしっかり伏線が貼られているので、そのメイントリックに持った食いたり無さは感じないのですよ。それでもやっぱり本格推理としてはメイントリックがねぇ(笑)。メイントリックという考え方自体、前世紀の遺物なのかなぁ。でも、この作品が書かれたのは前世紀だよね。当時はそういう小うるさい事を言う人が今以上に多くて評価が分かれたかもしれないですね。




という、推理小説読みとしては若干不満な所もある作品ではありますが、作品全体としては、その部分も含めてとても満足しています。
推理小説初心者には「推理小説としては」お勧めできないけれど、古典的な謎解きものとかをある程度読んでからこの作品を読むと気に入る確率は高いと思うし、いわゆる伝奇ものが好きな人が読んでも楽しめると思います。




ここから余談。例によって本編よりも思い入れがある余談。








この作品が出版されたのは1981年です。昭和で言うと56年。
あの事件は起こっていなかったし、あの事件も起こっていなかった。そしてこの災害も当然起こっていなかった、そういう時代です。


たぶんに個人的好みの問題なのですが、現実の事件、事故を下敷きにしたフィクションって好きになれないんですよ。事実を積み重ねたノンフィクションの方が好きです。そこに作者独特の解釈が含まれていたり、若干設定を変える、時によってはSF的な設定を加えることもありますが、事によって現実とは違う独特の世界観を産み出していたりしても、どうにもこうにも薄っぺらく思えてしまうんですよね。
ところがどうも世間様の評価は違うみたいでして……。このズレはいかんともしがたい(笑)。


『サマー・アポカリプス』も現実のできごとが下敷きになっています。しかし、これは好きなんですよ。これはというよりもこういうのは好きなんですよね。独自の解釈どんと来いって感じ。


その違いはどこにあるのか?


それは「古さ」なのかなぁと。
十分に古い現実に起こった事件事故災害を下敷きにした場合、それは読者である俺にとってはすでにフィクションと区別できないのかもしれない。ほとんど手に取ったことがない時代小説を読んだとしたら同じような感想を持つのかも知れない。
『サマー・アポカリプス』の設定では第二次世界大戦でのナチズムが背後に流れています。しかし、作中の現代時間で起こる事件の背後には、俺が物心ついてから起こった9.11や地下鉄サリン、そして東日本大震災が存在するわけがないのですよ。時間軸的にそれは間違いない事なのですよ。おそらくは俺が物心つく前に起こったテロリズムが背景にあるんだろうなと思うのですが、前述したようにそれらの事件は俺にとってはフィクションと見分けがつかないんですよね。


オカルティズムを根元として民衆、それが社会の大部分を占めるのか、極めて小数なのかは問わずです、を支配する事や、「理想的な」社会を実現するために手段を選ばない人々の存在というのは、もちろんそれが実際に起こった事か、創作者が産み出した虚構なのかを問わずにね、時代を超えた普遍的なテーマになりうるというでしょう。
そして、それは、とある事件には時代的な必然性がある、みたいな言説を聞くと醒めた気分になる理由かなと感じます。




実はこの作品、昔読んだ事があったかもしれない。もしそうだとしてもすっかり忘れていた。タイトルははっきり覚えているんだけれど、仮に読んだとしてもスピード重視でメイントリックだけ追っていたような時代だったから何も残らなかったのかも知れない。
決してじっくり読んだわけではないですが、個別に抱く感想以外にもいろいろと考えさせられる作品でした。