第六日:『壁』

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四日目五日目にも述べたように、僕は、ハヤテのごとく!という物語の「幹」が、綾崎ハヤテ君という少年と、三千院ナギちゃんという女の子の成長にあると考えている。


今日からはその「幹」を意識した上で、ハヤテのごとく!という作品が持つ物語性の本質について考察していきたい。今回の文章の本論にあたる部分である。


まず、一つ目の材料として、三日目に「違和感」で取り上げた「漫画の性格を限定する登場人物の言動」についての詳細を論じてみよう。


連載初期の段階で漫画の方向性に作中で制約をつけるということは危険なことである。ある方向性に向かうような流れを作中で示唆して、その後何週間かの間に寄せられる読者の反応を見て制約をつけようとするのならばわかるのだが、この作品では、その方向に行きそうな時、読者の反応を待たずにあえて制約をつけているのだ。


そう、漫画の方向性に自ら「壁」を作っている。


四巻までの間に登場人物に「この漫画はそういう漫画ではない」と制約されて切り捨てたれた方向で、つたないながらストーリーを考えてみよう。

  • バトル漫画

ナギと自分とを守るため、より強くたくましくなっていくハヤテ。時折、平穏な学園生活を営みつつ、時にはお嬢様と誤解から仲違いしながらも、立ちはだかる敵を友人達の助けを借りつつ次々と倒してゆくハヤテ。
そしてあるとき最強最後の敵と出会う。お互いに死力を尽くして戦い、最後は相打ちとなる。そしてなぜかこのときだけはリアルに死ぬ。
最後に
「お嬢様に出会えて幸せだった」


ハヤテのごとく!



借金を返し、自分の人生の意味を見いだすため裏稼業に手を染めるハヤテ。そして自分の隠された才能に気づき、変わってゆくハヤテ。そんなハヤテを心の底から心配し、まっとうな道に引き戻そうとするナギお嬢様。しかしハヤテは表面上従うそぶりを見せるが、心は金にとりつかれたままである。裏社会で名を挙げるにつれて、そちらにもつながりがある三千院帝にも一目おかれる存在となる。
しかし、裏社会での三千院家の真の力を知っているハヤテは、借金を返すまではそこから離れることはできない。そして借金を返済し三千院家を離れようとするハヤテ。ナギは泣きながらすがる。
ラストシーン、にやりと笑いながら「三千院の遺産はもらった。ついでにナギももらっていく」と捨てぜりふを吐いて去っていく。


ハヤテのごとく!




書いていて赤面するような文章だが、素人でも何となく展開は作れる。プロならばそれなりの物を書くことができるであろう。そしてその展開を読者が求めているのならばなんとか書こうと努力をするであろう。でも彼はその道が読者により指し示されても選ばない事を宣言しているのである。この先、もしバトル系の話の時だけ人気があがるようならばいったいどうするつもりだったのだろうか。


このことの意味を考えた結果、ある一つの結論に達した。


畑健二郎さんは、登場人物に漫画の路線の制約をつけさせることによって、逆に漫画の路線の制約を無くしているのである。バトル漫画なら常にバトルを前面に押し出さなければならない。それ以外の話は周辺ストーリーとして読者に受け止められる。サクセスストーリーなら成功する過程を定期的に描かなければならない。それ以外の話はあくまでも「つなぎ」として読者に受け入れられてしまう。その制約を受けることを彼は嫌ったのではないか。
話の展開の中にはバトルもあればサクセスストーリー的な流れのこともあるであろう。しかしそれはあくまでも「枝葉」の部分でありそれがこの物語の「幹」ではないのだ。「幹」は特定のジャンルに縛られること無く、淡々と、しかし着実に描かれなければならないのである。僕が一読し、作中に「壁」を作ったと感じた時、実は彼は「壁」が建設されるかも知れない予定地を、壁が作れないようにめちゃくちゃに壊していたのではないか。
畑健二郎さんはこの作品に一時的な人気がでればそれでよいとは思っていないのだ。自身が思い描いていない路線で人気が出たらそれで行こうとは考えていない。萌え、ギャグ、ラブコメという、一見読者の反応の方向性によってどう転んでもよいように、ある意味で考え抜かれた基本設定の様に見えるが、実はこの作品には譲れない要素があると言う意思表示なのだ。


志が高いのである。




次の話題に移ろう。


二日目に、この作品の三要素、萌え、ギャグ、ラブコメの中で、ラブコメは実は成立していないと書いた。そのことについて詳しく考えてみる。


ブコメというのは、非常におおざっぱに言うと、作中で出会った男女、あるいはすでに出会っていたが男女お互い意識しながら、別の男女との関係を交えて、誤解とすれ違いの中進んでいく物語である。その話の登場人物、シチュエーションに読者は感情移入して感動するのだ。
しかし、ハヤテのごとく!の場合「お互いの意識」というところに問題がある。少なくとも今の段階では、ハヤテ君はナギちゃんを女性として認識していないのである。今のところ主人公とヒロインの間が相思相愛という形になる可能性がないのだ。


主人公とヒロインとの間に決定的な「壁」があるのである。


さて、ここで、主要な女性キャラクターを四巻終了時点の順位付けをしてみた。順位付けの視点は、ハヤテ君が恋愛感情を抱く可能性の大きさという観点である。「この人は大事な人だから好きになってはいけない」などの恋愛感情以外の要素はあえて割愛して考えている。当然のことであるが、あくまでも僕から見ての順位付けである。


マリア>ヒナギク>分厚い壁>西沢>>>当面の間越えられない壁>>>ナギ


このハヤテのごとく!という物語をナギちゃんの恋物語としてとらえた場合、全く持って絶望的な状況である。割愛した視点も加えればさらに悲惨なことになってしまう。しかしこの状況は、この作品にとって悪い事とも言い切れない。不可能状況に挑戦する登場人物という一つの類型を使えるからだ。極めて厳しい状況に追い込まれた登場人物が、数々の障害を乗り越え自分の目的を果たしていく。今まで漫画に限らずいろいろなメディアで描かれてきた物語の類型である。
そのためには、登場人物が自分に何が足らないのか、何をすれば乗り越えることができるのか、そもそも乗り越えるべき物は何なのかを認識する必要がある。だが、ナギちゃんはまだそれを認識していない。


この作品の場合、乗り越えなければいけない大きな障害がいくつか設定されている。その一つが「年月」である。


この作品がラブコメとして、ナギちゃんの恋物語として成立するには、作中での時の流れが絶対必要なのである。他の条件がクリアできても、その時点で必要な年月が過ぎていなければナギちゃんの恋は決して成就することはないのである。それ以前に恋物語にすらならないのである。
さらに、たとえ恋心の対象となっているハヤテ君が、今すぐにナギちゃんの事を好きになったとしても、現時点でハヤテ君があこがれているマリアさんから見ると、それは

幼女性愛者への目覚め

第九話(一巻九話)
という言葉で切って捨てられてしまうのである。


この物語が恋物語になるために時の流れが必要という要素がこの作品の物語性を高める大きな要因となっているので、七日目にもさらに詳細に書く予定である。




ブコメ要素についてもう一点指摘しておこう。ナギちゃんのライバルとして作者が指名したのは、二日目のキャラクター紹介にも書いたように、この作品の中では極めて特異なキャラクターといわざるを得ない「普通の女子高生」の西沢さんである。なぜライバルは彼女でなければならないのか。マリアさんではいけないのか、それともヒナギクさんではだめなのか。
その答えを上記の順位表に示したつもりだ。マリアさんヒナギクさんとナギちゃんとの間の差が大きすぎるのである。もし四巻の時点でマリアさん、またはヒナギクさんがハヤテ君に恋心を抱き、本気で攻撃を仕掛けた場合、今のナギちゃんにはなすすべがないであろう。ハヤテ君の気持ちが動かないことを祈るしかない。
マリアさんは第二話(一巻二話)で、ハヤテ君から

今まで見た人の中で最も綺麗な人

であったと書かれている。また第二十六話(三巻六話)ではハヤテ君は、お風呂に入りながらマリアさんが入ってくることを妄想したりもしている。ヒナギクさんについても同様である。第三十五話(四巻四話)で、ヒナギクさんがスカートをめくってスパッツを見せると赤面してしまう。マリアさんヒナギクさんの二人にはハヤテ君は作中で「女性」を感じていることが表現されている。しかし、ナギちゃんに対しては違う。第三十八話(四巻七話)で、寝ころんで漫画を読んでいるナギちゃんのパンツが見えていても、ハヤテ君は赤面することもなく、ただたしなめるだけなのである。
そして、マリアさんはナギちゃんにとっての母替わりでもあり世界で一番大事な人でもある。ヒナギクさんはナギちゃんにとって姉のような存在でもあり、また、憧れの対象でもある。その二人とナギちゃんがもし対峙した場合、女性として認識すらされていない彼女には勝ち目がないのである。
だから、ナギちゃんのライバルには「圧倒的な戦力差」で勝てる、だがハヤテ君から見て女性として認識できる相手を用意しなければならなかったのだ。それが西沢さんである。しかし今のナギちゃんは西沢さんとの間に「当面越えられない壁」があることにたぶん気づいていない。もしこの壁に気づいたとき、物語は大きく展開してゆくのではないかと僕は予想している。もちろん物語終盤まで気づかないケースも考えられるので予断は許さない。
五日目に触れたことだが、西沢さんというキャラクターはこの物語の中で非常に重要な地位を与えられていると僕は考えている。ラブコメ要素という切り口でもそれはいえる。そして、このことについてはもっと詳しく述べなければいけないのだが、できうる限り四巻までの内容という制約があり、そこまでに西沢さんが一回しか登場していないのでなかなか難しい。これについては日を改めてまた書くことになると思う。
いずれにしろ、四巻発売時点では、主人公ハヤテ君、ヒロインナギちゃん、メイドマリアさんに続く重要な位置を占めるキャラクターが西沢さんではないかと考えている。このことが二日目に書いたキャラクター紹介での順位付けの理由だ。主人公、ヒロインより上に上がることはないだろうが、西沢さんの位置は今後もう一つ上がるかもしれない。




ブコメ要素について語るにはどうしても避けて通れない所がある。


それは「爆弾処理」だ。


その話の前に一つだけお断りしておきたい。僕は第一話(一巻一話)で描かれている二人のそもそもの出逢い、誘拐犯とその対象となる子供であった、というこの作品の基本的な設定についての答えをまだ持っていない。そのことに意味があるのかないのか、それすら想像もついていない。だからもしかすると根底の部分で読み違いをしているという懸念は持っている。


本題に戻ろう。


冒頭で誘拐犯としてのハヤテ君が言った言葉をナギちゃんが愛の告白と勘違いするところからこの作品のラブコメ要素は始まっている。そして、その誤解は、この作品がラブコメを軸として進んでいくのなら、終盤まで解けない方が自然ではないかと思う。
しかし、一巻の巻末で作者はこの誤解を連載開始十週に満たないタイミングで解消しようと考えていたと書いていた。


これはいったいどういうことなのか。


当たり前のことだがこの作品で描かれているのは現実世界ではない。漫画という、ハヤテのごとく!という虚構の世界である。作者が望むならば、現実の世界では誤解が解けそうな局面でも漫画の世界の中ではさらなる誤解を産むように設定することも可能なのだ。もしこの作品をラブコメとして描きたいのなら、誤解は誤解として最後まで引っ張っても何の問題も無いのではないか。むしろそういう手法を使う作品の方が多いくらいなのではないかと感じたのだ。
「爆弾」と呼ばれている誤解を中心に、ハヤテのごとく!はある程度の長さの連載を続けることができるかもしれない。でもこの作者は誤解を解こうと(ばれてしまうという形ではあるが)していたのだ。ばれてしまった場合、ラブコメ要素を頼りにこの作品を読んでいた読者はもしかすると離反してしまうかもしれない。なぜそんなリスクを犯してまで誤解を解こうとしたのか。そこで、そもそもこの作品はラブコメにすらなっていないことに読者が気づいたらどうするつもりだったのか。


その答えとして考えられるのは、今日の最初の項目で述べた、「漫画の路線の制約を無くし」たいという意志である。ハヤテのごとく!という作品に対してジャンル付けをすることを拒んでいるような印象すら受ける。作品冒頭の誤解を解くことによって「この漫画は(ただの)ラブコメではありません」という意思表示をしたかったのではないかと感じるのである。


余談であるが、この誤解を解こうとしていたと書いている畑健二郎さんによるナギちゃんのプロフィール紹介には特筆すべきところがある。本来四日目に述べるべきであったがここで触れておく。彼は「爆弾処理」について

頭や胸が痛い

と述べている。これはどういうことなのか。
彼はこの物語の作者、神である。彼が書いた物、考えた物がこの作品の全てなのである。頭が痛いのは当然のことである。予定していたことができなくなってしまったのだから。でも彼は胸も痛めている。それはいったいなぜなのだろうか。
彼女の行く末を心配しているのだろうか。しかし、それは作者の視点ではない。読者の視点である。畑健二郎さんはこの作品の神である作者であると同時に、読者としての視点も持っているのではないかと思う。彼はもしかすると自分が生み出した物語に感動し、喜び、涙できる人なのかもしれない。だが、もし仮にそうだとすると、この物語の行く末に一抹の不安を感じる。それについては最終日十日目に改めて触れることになると思う。


一度逃した爆弾処理のタイミングをいつにするのか。僕なりにいろいろ考えたが、あるとき「もうすでに爆弾処理は終えているのではないか」と思い至った。
第十九話(二巻十話)で作者にとっての爆弾処理は完了しているのではないかという仮説だ。この話で、たとえ誤解が解けたとしてもナギちゃんの恋は簡単に成就する物ではないということが描かれている。ナギちゃんはハヤテ君にとっては「子供」なのだ。それを解決するには前に述べた「年月」が必要である。さらに別の条件としてハヤテ君の借金返済も必要である。話の流れを見ると誤解が解けたとしてもナギちゃんのハヤテ君への恋心はおさまりそうにない。今となっては最初の誤解は極々小さな障害にしかなっていないとも考えられるのである。


この、ハヤテのごとく!という作品には一読しただけではわからないような要素が多数隠されている。今日はそのうち二つを「壁」というキーワードを頼りに解説してみた。
これらの「隠し味」はいったいなんのために施されているのか。


それは、全て畑健二郎さんの言う「トゥルーエンド」のためなのではないか。


この作品は、ある結末のためだけにデザインされている。その結末を迎えられないと言うことは打ち切りを意味している。そんな覚悟を感じるのである。


志が高いのである。

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