第七日:選択される未来

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さて、再三の繰り返しではあるが、ハヤテのごとく!という物語の幹は、綾崎ハヤテという少年と、三千院ナギという女の子の成長にある。


今日は、その幹の部分についての考察と、漫画という表現方法の制約の中でそれを実現するための手法の分析をテーマとしたい。


漫画というのは虚構の世界である。しかしそれを読む読者は現実世界を生きている。虚構ではあっても現実世界に暮らす人が感情移入することができなければ読んでもらえる作品にはなり得ない。小説の場合、ある程度評価が定まれば読者に精読することを強制する難解な作品でも発表の場は用意される。しかし、漫画の場合には、感情移入することにトレーニングが必要になるような作品には、そもそも商業的には発表の場すら与えられない。そういう世界ではないかと考えている。


そういうメディアを使って、畑健二郎さんは少年少女、男の子女の子達の成長を描こうとしている。しかも、主に想定される読者は「子供」である。それはそもそもよくあることなのだろうか。簡単なことなのであろうか。


まず主人公とヒロインのプロフィールをご覧頂きたい。そして年齢設定に注目して頂きたい。

  • ハヤテ君 16才
  • ナギちゃん 13才

となっている。
この作品では、頭脳明晰なナギちゃんは飛び級をしていてハヤテ君と同じ高校一年生という設定になっているが、現実世界に置き換えて考えると、ハヤテ君は高校一年生、ナギちゃんは中学一年生となる。


中学一年生の女の子から高校一年生の少年はいったいどのように見えるのだろうか。女性ではない僕には実際の所はわからないが、中学に入学したときに、三年生たちがものすごく大人に見えたことを覚えている。
人によっては「おじさん」に見える人すらいた。実際に自分が三年生になると大して変わっていないと思えるのだが、入学したときにはそう思えるのである。


十三才と十六才、数字で言うとたったの三年である。しかしこの期間に人間は肉体的にも精神的にも人生でもっとも成長する時期を迎える事が多いように思える。十三才から見ると十六才はやたらと大人に見えて、逆に十六才からみると十三才は、その三年という差以上にものすごく子供に見えるのではないか。そして、この作品には時の流れがある。登場人物達は現実世界の我々同様年齢を重ねてゆく。そしてこの作品がいつ終わるかわからないが、おそらくは、僕の予想ではナギちゃんもハヤテのごとく!という作品内で十六才になる。今のハヤテ君と同じ年齢になると考えている。
時間の流れを感じさせるこの作品の特性にもかかわらず、あえて表現が難しい年頃の女の子をヒロインとして選んでいるのである。


漫画でこの時期を表現する時にはあるエピソードと次のエピソードの間に「そしてX年後・・・」という形で数年が経過するという手法を使うことが多いように思える。それは登場人物の言動だけではなく、絵としての表現方法も変える必要に迫られる場合があるからだ。背が伸びる、男性らしい、あるいは女性らしい体つきになっていく、その様子を、徐々に徐々に変わる様を表現しなければいけなくなってしまう。それを省略する方が、物語に影響がなければ合理的であろう。


しかし、ハヤテのごとく!という作品では、主要キャラクターの何人かが、その大きく成長する時期を迎える状況で、ゆったりとした流れで時が進んでいる。あるとき時の流れが一気に進むのか。そこでX年後・・という手法が使われるのか。僕はそうはならないと考えている。


これはまだ作者から材料が提供されていないので僕の妄想に過ぎないのだが、その思春期の男の子女の子が、少年少女に変わる様を漫画で描きたいというのが作者のやりたいことの一つなのではないかと思っている。
妄想がベースなので恐縮ではあるのだが、僕のこの作品に対する高い評価の理由の一つがこのことである。
作者は非常に難しいことにあえて挑戦しようとしている。


志が高いのである。


もちろん作者はそこまで意図していない可能性もある。逆になんとか絵としての成長は描かないように工夫している節も見え隠れはしている。それでもこの作品の場合は登場人物の精神面での成長だけは描かなければならない。年月の流れで登場人物が変わっていかないと物語が進んでいかないのである。


登場人物が成長への欲望を持っていることは作中でも描かれている。

  • ナギちゃんの自分の身長に対するコンプレックス
  • ワタルくんの事業欲

などである。
登場人物は虚構の世界の中で、それぞれの方向性の中で自らを成長させようとしているのである。


漫画という表現方法でキャラクターを成長させるということは難しい。成長を描ききるとその作品は名作と評価されるのはそのためであろう。特にこの作品の場合、漫画としての基本要素は萌え、ギャグ、ラブコメである。
ブコメ要素では登場人物の成長というのは別に何の障害にもならないであろう。逆に物語を進めやすくする方法の一つとして使える。
問題は萌えとギャグだ
まずギャグについては2005/10/2の日記にも書いたように、キャラクターの成長との相性が悪いのだ。
ギャグというのは登場人物にある程度の記号性を持たせて、「お約束」的な流れと、それをぶちこわす流れの両方を駆使して構成することになる。登場人物が成長していつもと違う反応をしてしまうと、面白くなくなってしまうことがあるのだ。それで人気が得られればそれでもいい。しかし人気を失うことも多々あるのだ。
この作品の登場人物は非常に記号的であるにも関わらず、成長をしようとしている。僕はこの設定に挑戦している畑健二郎さんとそれをサポートしているスタッフを高く評価している。失敗を恐れて人が踏みしめて歩きやすい道を歩くのではなく、失敗する可能性は高いがあまり人が踏み入れていない道をあえて選んでいる。


志が高いのである。




次に萌えについて触れてみる。


日本古来の「わび」「さび」に比べればわかったような気にはなっているが、「萌え」がいったい何なのか言葉にはできない。だからこの考察は前提からして間違えている可能性もあることをまず告白しておく。


萌えの対象となる登場人物がこの作品にはたくさん用意されていることには二日目に触れた。そして萌え文化をヒントにしてキャラクターの造形をしているのではないかということを五日目に述べた。僕は「萌え」という物の正体の一つは「細分化」なのではないかと感じている。もちろん多くの人が「萌え」る人、キャラクターも存在するだろうが、細分化された要素に「萌え」るというのがポイントとなるのではないか。
それを前提として「萌え」と登場人物の成長との相性を考えてみる。


ファンの方には申し訳ないが、一番記号としての要素がわかりやすい、サキさんを例にしてみよう。
彼女は眼鏡をかけたドジなメイドさんである。もし、彼女があるとき一念発起してコンタクトをつけることにしたらサキさんのファンはいったいどう思うのだろうか?そのままファンであり続ける人は多いと思うが、もしかすると離れていく人もいるのではないだろうか。
ヒロインのナギちゃんの場合は、身長にコンプレックスを持っている。もし彼女の背が伸びたときにファンはどう思うのだろうか。そのままこのキャラクターを愛し続けてくれるのであろうか。そしてもちろん内面も変わっていく。それをファンは受け入れることができるのだろうか。


もし僕の考えるように「萌え」というのがかなり細分化されているものだった場合には、成長との相性が悪い可能性もあるのだ。




さて、ちょっと話題を変えてこの作品の根幹となるところに触れていきたい。


物語としての幹は登場人物の成長である。そしてそれを促すものは、そう、年月である。この作品の全ての根幹は「日付」にあると僕は考えている。


そもそもなぜこの作品ではこれほどまでに日付にこだわっているか。漫画として人気を出したいのならば、そして、萌え、ギャグ、ラブコメが柱なのであれば、現実世界の季節に合わせてイベントを用意した方がよいのではないか。単なる一読者である僕でさえ心配してしまうのである。無限ループの毎年を繰り返す漫画には人気が出たときにいつまでも続けていられるという強みがある。そしてうる星やつらの例を出すまでもなく、ラブコメとしての展開も物語としての感動的なラストシーンを描くことも可能である。
また、別の年代の話を描きたくなった場合には、漫画なのだから、実際に読みきりで手法として使ったように、タイムマシンあるいはそれに類するものを持ち出せばよい。いったいなぜ日付にこだわる必要があるのか。二日目には意図的に触れなかったのだが、それが僕の違和感のそもそもの出発点でもある。いったいなぜ作中の日付を限定する必要があるのか。


一日目からここまで読み進めてくれた方には、あるいは熱心なハヤテのごとく!の読者の方には、答えはもう自ずと見えていると思う。そういうことなのだ。この物語を成立させるためには登場人物が年月を経て成長することがどうしても必要なのだ。




借金返済についても触れておきたい。


ハヤテ君はナギちゃんに借金を肩代わりしてもらった。それを返済するために日々執事として働くことになった。その借金返済まで四十年という年月が設定されている。返済までに主人公とヒロインはどうなるのか

  • ハヤテ君が二十三才の時ナギちゃんは二十才

内容は全く変わってしまうが漫画としては成立するであろう。

  • ハヤテ君が三十才の時ナギちゃんは二十七才

・・・厳しいと思われ。
計算上の借金返済期限

  • ハヤテ君が五十六才の時ナギちゃんは五十三才

もはや同じ漫画ではありえない。


月日が流れるというのはこういうことである。


この作品には、ギャグ漫画では普通に使われる「漫画内ではある一年を繰り返す」という展開する意志がない。これはこの物語に、ある結末が用意されているからだと僕は思っている。そしてその鍵となるのが「日付」なのである。




今日の後半は、この物にするのが難しい物語を、作者の畑健二郎さんはどのように具現化しようとしているのかについて分析してみたい。


結論から述べる。畑健二郎さんはこの作品を「ゲーム的な手法」を使って生み出そうとしているのである。


あらかじめ用意されたイベントをクリアすることによって登場人物が成長し、登場人物間の関係も変わっていく。そして、それがどう変わっているのか、ゲーム的に言うとレベルがいくつ上がったのかが別の登場人物によって読者に説明される。現在その説明の役割を任されているのはマリアさんである。2005/11/2の日記で、「マリアさんのキャラクターの性格付けに失敗しているのかもしれない」という趣旨のことを書いたのはこのことである。もともとハヤテ君の憧れの対象として設定していたマリアさんに登場人物を評価する役割を与えるつもりはなかったのではないかと思っているのだ。また、それが六日目に述べた爆弾処理が終わっているということの論拠にもなる。本来の物語の流れの中ではあの話は作られない予定だったのではないかと思っているのだ。


ところで、ハヤテのごとく!という作品が、このゲーム的な手法を使っていると気づいたときに、ある予測が僕の脳裏に浮かんだ。

  • この作品、ハヤテのごとく!の、全ての重要イベントのアウトラインが連載前にデザインされている。
  • 登場人物の能力、物の見方、登場人物間の人間関係などが作者の中では数値化されている。その数値は物語が進むにつれて変化していく。



もしこれが事実だとしたら、驚愕せざるを得ない。僕たちが読んでいるのはもうすでに書かれている小説を毎週毎週ごくわずかずつ切り出した物のようなものだということになる。もちろん細かいイベントやディティールは毎週毎週考えて書いているとは思う。でも、作品本編、単行本、そしてバックステージを読むと、僕には少なくとも物語に大きく影響するようなイベントは、もうすでに全てデザインされているとしか思えないのである。
そしてそのイベントの結果はあたかもプログラムのパラメータのように管理されている。作者の頭の中だけで管理されているのかもしれないが、もしかするとエクセルで実際に数値として管理しているのかもしれない。まず、あるイベントを想定している状況でクリアしたときに能力などの数値が、どの程度アップ、あるいはダウンをするかがあらかじめ考えられ準備されている。そしてページ数、読者の反応なので、事前に思い描いていたような展開ができなかった場合、その数値を微調整し、他のイベントで補完することを検討する。また、あるイベントについては、ある数値がしきい値を超えないと発生しないように事前に決めておく。逆に先ほど書いた当初の想定と異なる状況である数値がしきい値を超えてしまった場合、物語の展開としてはそのイベントをはじめざるを得なくなる。そういう仕組みでこの作品は構成されているのかもしれない。


この作品では定期的に最終回にしても違和感の無い話を用意している。作者の畑健二郎さんの書いている文章を読む限り、彼は漫画ファンでありアニメファンである。そして、少なくとも当初は連載が打ち切りになることを危惧していたようだ。
また、それとは相反するようだが、人気が出てアニメ化された場合の事も考えていたようだ。アニメ化された場合、本編の進行状況とは関わりなく終了を迎えることが多い。その時に違和感無く終えられるような話が漫画の中ですでに用意されている。


すでに気づいている人も多く作者自身も開示している事だが、この物語はマルチエンディングの体裁を取っているのである。


ここでこの作品の終了条件を列挙してみたい。打ち切り時にありがちな「新しい旅が始まる」や「これからも同じ日常が」は除いている。

  • ハヤテ君がナギちゃんに借金を返済する
  • ハヤテ君が執事をクビになり「ナギの世界」から永遠に離れる。
  • ナギちゃんの恋が成就する。
  • ナギちゃんの恋が成就しないことが確定する。

これ以外にもアイディアを持っている人もいらっしゃるだろうがとりあえずこの四つを挙げる。これらはそれぞれ単独でも終了条件となるが一つの終了条件をクリアしたあと、別の終了条件に話を持っていく事も可能である。


この構成を見て、僕はある全く毛色の違う別の物語を思い起こした。京極夏彦氏「塗仏の宴」である。
塗仏の宴 宴の支度 (講談社ノベルス)
塗仏の宴 宴の始末 (講談社ノベルス)
謎解き要素がある小説なので詳細な記述は避けるが、物語の要素は全く違うのに構造にどことなく類似点があるような気がしてならないのである。


話を元に戻そう。


ハヤテのごとく!という作品には終了条件が複数ある。物語はどの条件で終了するかを途中で選択することになるであろう。そして、それぞれの終了条件の中でさらに細分化されて行くのであろう。


読者は、ゲームと同じようにあらかじめ物語の要素が全てプログラミングされているにも関わらず、その物語世界でどのような選択が行われるのかを見守り、その先にデザインされているであろうイベントに期待をしてしまうのである。


数年前に「ゲーム脳」という言葉が話題になった。その言葉は否定的な意味で使われていたのだが、この物語を生み出した畑健二郎さんの脳は明らかにゲーム脳である。それは決して否定的な意味ではない。ゲームでトレーニングされた人にしか生み出せないような物語を紡ぎ出す、一種の進化した脳とも言える物である。「ゲーム脳」でなければ生み出せない物語もあるのだ。


しかし、この作品はゲームではない。あくまでも漫画という表現手法を使っている物語である。ゲームでは自らプレーヤーとして進むべき道、それは事前にプログラムされた物ではあるが自分の進むべき道を選んでゆく。しかしこの作品を読む僕らはプレーヤーではない。後ろからゲームの進行を眺めているのである。ゲームはあくまでも、この複雑な物語を完成させるための手法にしか過ぎない。そしてこの物語の目標は「トゥルーエンド」ただ一つなのである。ゲームの手法を使ってクリアするそれぞれのイベントは、おそらく多かれ少なかれ「トゥルーエンド」のために必要なのである。だからこそ、僕は全ての重要イベントはすでにデザインされていると思っているのだ。


誤解を避けるために付け加える。この作者はこの手段を使うためだけに作品を描いているのではないと感じている。目的を果たすために作品を描いているのだ。決して「手段のためには目的は選ばない」などということはなく、「目的のためには手段を選ばない」のである。
ここからも、この作者、この作品の資質を感じるのだ。


志が高いのである。


さて、最後に先ほど列挙した終了条件からあえてはずした要素を書いておこう。それこそが僕がこの物語の真の終了条件ではないかと考えているものだ。
それは

  • 日付

である。


ある日付がきたらきっとこの物語は終了する。その日を境に、この優しく切ない虚構の世界は世の中から消えてなくなる。そんな気がしてならないのである。その日がいつか、僕なりに予想はしているがここで書くことはやめておこう。今までの日記でも簡単に触れているので興味がある方は探してみて欲しい。
その日付までに、どこまでイベントが完了しているのか、そして「トゥルーエンド」に必要なイベントを全て終えているのか。その日付がやってきたときそれら全てをクリアしていて、はじめて作者は「トゥルーエンド」を選択することができるのであると僕は思っている。


この物語の「未来」はすでに用意されている物の中から作者によって選択されるのだ。

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