第九日:それぞれの幸せ

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二日目の登場人物紹介に書いたように、この作品で重要な登場人物の多くが、不幸な子供である。
三千院家の屋敷は、超人的な能力を持つが不幸に見舞われている子供達が作る疑似家族ともいえる。

  • ハヤテ君・・身体能力
  • ナギちゃん・・頭脳、お金
  • マリアさん・・頭脳、執務能力

この屋敷で常時生活しているのはこの三人だけである。そしてペットのタマを加えて、その全員が親と死別または生別している。


この作品には四巻時点で大人らしい大人はほとんど登場していない。また、今のところ血がつながった家族として描写されていると言えるのは、桂雪路ヒナギク姉妹だけである。それ以外の登場人物たちは、みな作中での血のつながった家族関係は希薄である。
超人的な能力を持つのは屋敷に住む子供達に限らない。明らかになっているだけでも伊澄ちゃんは特殊な能力を持っているように描かれている。この作品でごく普通の子供として設定されているのは西沢さんだけであろう。ここでも彼女は異彩を放っている。
さて、この物語で描かれた執事を除く大人たちは、超人的な能力をもつ子供達に比べ、普通の、いや、むしろだめな人間やひどい人間として描かれている。自分の欲望のためだけに無垢な子供達を利用しようとし、その結果純粋だったはずの子供達の心をゆがめてしまうような存在である。もしかすると作者は、この物語の中で、そういう「汚い」大人の影響がない子供達だけが自力で成長する世界、そこで暮らす子供たちにとってはユートピアの様な世界を描こうとしているのかもしれない。それが「ナギの世界」の正体なのではないか。
そして、主人公となるハヤテ君が、今まで生活してきた普通の庶民の世界「歩の世界」という「大人達がいる世界」と断絶するために、第一話(一巻一話)で提示された悲惨な設定が必要だったのかもしれない。
この「ユートピア」という設定は漫画でも小説でもよく使われる。でもこの作品には「時の流れ」という要素がある。作品内では描かれないかもしれないが、この作品の登場人物として存在している子供達は、いずれ大人になっていくことを時の流れの中で否が応でも感じることになるのだ。そしてその道を実際に通ってきた登場人物が四巻で提示された。


桂雪路先生その人である。


さて、ハヤテ君は本当にそのかりそめのユートピア、「ナギの世界」に居場所を見つけ、その中だけで存在し続けることはできるのだろうか。ここで再び西沢さんという登場人物が重要な意味を持ってくる。彼女がいる限り、彼女が庶民の普通の世界「歩の世界」にとどまり続け、さらにナギちゃんとのライバルである限り、ハヤテ君は「歩の世界」とは完全に断絶することはできないのだ。もし彼女がライバルのナギちゃんが支える「ナギの世界」にやってくれば、ハヤテ君も西沢さんもユートピアの一員になれるはずだ。もし彼女がナギちゃんとライバル関係になることをあきらめればハヤテ君は「ナギの世界」に入り、西沢さんは「歩の世界」に戻るはずだ。しかし、彼女の役割の一つは今の「歩の世界」にとどまり、かつナギちゃんとライバル関係を続ける事にあると思う。そしてライバルでありながらナギちゃんの成長を結果的に手助けする役割を担っているのだと思う。そのため、作中では一見冷遇されるように見え続ける。「ナギの世界」を主に描いているこの物語の中で、他の登場人物と同列に並べることはできないのだ。いろいろな意味で西沢さんという少女は、物語の中で、重要かつ他の登場人物では代替不能な特別な役割を任されていると考えている。


繰り返しになるが、ナギちゃん達が生活をし、ハヤテ君が飛び込むことになったこの「ナギの世界」を支えているのは三千院ナギという女の子である。彼女の財力がこの世界を形作っている。そして、目立ちはしないが、彼女は優しい女の子である。幼女のころ、親に捨てられていたトラを「拾い」ペットにした。そしてハヤテ君を「拾い」執事として雇った。優しさを持っている女の子なのである。そして、自分の信念のためには他の人の代わりに犠牲になることもいとわないような一途さも持っている。そしてそれは間接的な優しさでもある。
しかし、ナギちゃんを、ただ優しいだけの女の子としてこの作品で描くことはできない。もしそうした場合、彼女のラブコメとしての置かれた状況が悲しすぎるのである。六日目に書いたように、この作品をラブコメとしてとらえると彼女の今おかれている状況は絶望的だ。わがまま、負けず嫌いなど、マイナスではあるが強さを与えないと、この作品の世界とくに「ナギの世界」が壊れてしまうのである。「ナギの世界」が壊れたらおそらくこの作品は存在できなくなる。畑健二郎さんが一巻のプロフィールでおっしゃっているようにこの作品を支えているのはこの「ちっちゃな女の子」なのである。


この作品の登場人物設定については人それぞれいろいろな評価をお持ちだと思う。僕は、それぞれの登場人物が一見わかりやすい記号性を備えているにも関わらず、非常に微妙なバランスで設定されていると感じている。


さて、今は不幸な子供達がこれから成長するにつれどうなっていくのだろうか。不幸という記号性を持ったまま物語は終焉の時を迎えるのであろうか。


僕はそうは思わない。


畑健二郎さんは、少なくとも主要登場人物三人、ハヤテ君、ナギちゃん、マリアさん、それぞれの幸せを描こうとしているように思えてならないのだ。八日目にも書いたように、この三人が今思い描いている夢は別々の物だ。さらにいうと夢をかなえることが幸せとは限らない。何を持って幸せとするか、それもまた三人それぞれ別の価値観があり、それはまた夢をかなえることとは違う別の状態であると思う。
今のところこの作品の中で幸福について語っているのは第三十六話(四巻五話)の

綾崎君、少しくらいワガママ言わないと…
幸せつかみそこねるわよ。

というヒナギクさんの言葉しか見あたらない。
この言葉が物語の中でどういう意味を持ってくるのか、意外と大きな意味を持つような気がしてならない。




物語には共通の敵、共通の目的、善玉の登場人物全員が納得する大団円が用意されていることが普通である。しかし、この物語は異なる価値観を持つ登場人物達が作る物語である。さらに登場人物の中で価値観が年月とともに変わっていく。この作品の場合、登場人物全てが目標とするようなある一つの決められたラストは用意できないのである。いや、あえて用意できないようにデザインされていると感じている。現実世界同様に複数の要素が複雑に絡み合い登場人物の行動や成長の方向性が決まっていくのである。
その中で、「不幸な子供達」を描くことによって幸せという物が浮き彫りになる。「トゥルーエンド」に向かうためには、登場人物それぞれが思い描いている幸せというものを避けて通れなくなるのだ。そしてその幸せは登場人物それぞれにとって異なるものである。ハヤテ君もナギちゃんもマリアさんも、そして他の登場人物も、人の幸せを願いながらも自分の幸せを夢見て成長していく。また自分自身を守りながら成長していく。時には自分自身が危険になっても「大事な人」特に「世界で一番大事な人」を守りながら物語は進んでいく。そういう物語なのである、ハヤテのごとく!という作品は。


いろいろな物語が幸せという物の定義を提供してくれている。その中で、この、ハヤテのごとく!という物語は漫画という枠組み、その中でも物語を語るのには向いていないギャグ漫画というカテゴリーで、ある一人の少年とある一人の女の子を中心とした子供達の成長を通して幸せという物も描こうとしている。
前に書いたことを繰り返そう。2005/8/22の日記で述べたことだ。
ゲームは難しい方が面白いのだ。ゲームを考える人にも、プレーヤーにも、そして後ろから見ている通りがかりの見物人にとっても。


この物語の冒頭のモチーフが「フランダースの犬」であったことも忘れてはならない。物語の始まりは、クリスマスイブではなくネロの命日なのである。
フランダースの犬がそうだったように、登場人物にとっては幸せな結末、しかしそれを読む読者にとってはたまらなく切なくなってしまうようなラストシーン。そんな最終コマを作者はすでに用意しているのかもしれない。ラブコメとしての、ラブストーリーとしての終了が必要ない、むしろそれは真の結末を知ると無意味な物にすら思えてしまう。そんな「トゥルーエンド」が用意されているように思えてならないのである。


僕は思う。この作品の作者畑健二郎さんは、ハヤテのごとく!という作品で、いったいなんて事をやろうとしているのだと。




ここまで述べてきたように一つ一つの要素でさえ漫画という枠組みで考えると難易度が非常に高い。しかしそれだけでは飽きたらず、そもそも人間にとっての幸せとはなにかという哲学的な命題にも取り組まざるを得ない構成なのである。
それはおそらく本人も、編集、出版サイドも気がついている。だからこそ、この作品を世に送り出したのだと思う。うまく行く可能性は低い。でも、うまく行ったときの見返りは非常に大きい。おそらく今まで誰も到達できなかったところに行こうとしているのだ。商業的に見るととてつもなくハイリスクハイリターンな物語である。それに彼は挑戦しているのだ。そしておそらくは読者も深層レベルでそれを感じている。だからこそ、新人漫画家の作品としてはそこそこの売り上げを上げ、さらには大量買をしてみたりする人が出たりするのだ。


その難しい事への挑戦こそが、僕がハヤテのごとく!という作品を高く評価している最大の理由である。


志が高いのである。