綿矢りさ著『蹴りたい背中』特別でありたい自分

蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

おもしろかった。


不思議です。どうして人からの共感を受け入れない登場人物が多くの人から共感されるのか?それは別に今に始まったことではなく極々一般的なこと。
その裏には、人間の「自分は特別な人でありたい」という欲求があると感じています。


この小説は著者綿矢りさ氏が最年少で芥川賞を受賞した作品です。しかし、解説にもあるように文学賞を受賞したとかしないとかということは考えずに感想を書きます。そもそも、賞をもらったとかもらわなかったとかいうことはある個人が本を読む時には無意味です。読んだ人がどう感じるかが全てであるはずです。何を読むかという選択をする時に、多くの人が、あるいは著名な人が薦めているか否かというのは参考になりますがその程度の物だと思います。


この作品の主人公は学校で孤立する少女です。彼女は自ら選んでその孤立した位置を手に入れています。作中での彼女の心情を想像すると、それは「孤立」というよりも「孤高」と言った方がいいでしょう。彼女は他の人とは違う、すくなくとも自分ではそうありたいと思っている。
その彼女と言葉を交わすことになった少年。彼はいわばアイドルオタクの引きこもりのようなテンプレートとして描かれています。そして彼も孤立しています。しかしそれが苦痛とは思っていない。
もう一人の登場人物は主人公と友人関係にあるような少女。彼女は孤立した二人を取り囲んでいる「普通の人」のテンプレートでしょう。そして二人と外界のインターフェースにもなっていると考えるとわかりやすいと思います。


私が読んだ限り、この小説はこの3人と少年の母親、そして一種作中の架空の存在と言ってもいいモデルの女性とその恋人らしきカメラマン、それだけの登場人物で成り立っています。非常にコンパクトです。わかりやすい。
結局の所彼女は彼に恋をしているのか?女性の登場人物に感情移入することが未だに苦手で、もしかしたら一生できないのかもしれないので私にはわかりません。
むしろ、少女から見ると少年は「自分は他の人とは違う特別な存在」であることをわかってくれそうだから興味を持ったのではないかと思います。それはなぜか?少年が少女から見て「他の人とは違う特別な存在」だからです。だからきっと少年も自分のことをそう思ってくれる、そういう思いが背後にあるはずです。しかし、それはちょっと違うようです。たぶん少年からみると少女も普通の女の子の一人であり、少年自身自分が他の人とは違うことは認識していても特別な存在であるとは思っていないしそうありたいとも思っていないのではないでしょうか?


冒頭にも書いたように、人間は「自分は特別な人でありたい」という欲求を少なからず持っていると思います。他の人よりも強い人間である、頭がいい人間である、お金をたくさん持っている人間である、偉い人間である、そう思いたい、そうあるべきである、そう思うのは実は極めて自然なこと、普通なことなのではないでしょうか。
だから、「他人とは違う特別な自分」を指向する主人公が登場する作品はいつの時代も人気があるのです。つまり、その主人公に感情移入できる自分を確認することで、自分自身が「他人とは違う特別な自分」であることを認識するのです。それが事実であろうが錯覚であろうがそんなことはあまり問題になりません。そう思えることが大事なのです。




読む前にはあまり多くを期待していなかったのですが、予想外に面白い小説でした。何とも言えぬ心地よい文章表現でその物語が展開していきます。


最後に念のため書いておきます。
今回は普段はあまりやらない、自分では決して好きではない決めつけ型の感想を書いてみました。この日記に書いている他の記事を読んでいる方は重々承知だと思いますが、私は本を読んでどういう感想を持つかは読んだ人それぞれに委ねられるべきだと思っています。こういう感想を持たなければならないなどということはありません。こういう読み方をしなければならないなどということはありません。
他ならぬ私自身が子供の頃からそういう「こうしなければならない」という考え方に従わず、それにむしろ敵対するようなことをしていましたから。
そして、未だに子供のままです。


私自身が「他人とは違う特別な自分」を強烈に指向して、そうはなれなくてもそうであるという錯覚を持ちたいと常日頃から潜在的に思っているのです。