筒井康隆著『ダンシング・ヴァニティ』世代とジャンルの壁を超えて…

ダンシング・ヴァニティ

ダンシング・ヴァニティ

筒井康隆は化け物か?
という一言感想を読了後すぐにここに書きました。しかし、すぐに感想を書くわけにはいかなかった。面白くて面白くて感想を書きたくてたまらないのに自分の中で処理ができず感想を書けないと言うもどかしさ。なんという小説。
本当は避けて通りたいくらいです。何をどうかいても自分の限界を晒すだけになりそうだから。でも、やっぱり書きたい。




実験作という言葉があります。その言葉を聞くと正直「あーあ」と思います。面白くないことの言い訳をしているんだなと私は理解してしまいます。私が読んだ限り『ダンシング・ヴァニティ』は実験作だと思いました。しかし、面白いんですよ。面白い実験作にはめったにおめにかかることができません。


帯やレビューでの売り文句は「反復記述」に絞られているように思えます。なので、ここはかっこよく「反復記述はこの小説の本質にあらず!」と言ってみたいのですが、それは無理ですね。


「反復記述」がすごいです。


前半部分では、反復されるたびに状況が極端になると言うわかりやすい展開ですが、それが中盤、終盤になると大きな意味を持ってくることに気づきます。終盤の何とも言えない喪失感はこの「反復記述」によってもたらされているところが大きいです。
ここ数年、ハヤテのごとく!という漫画と出会ったことをきっかけにして、物語の中でいかに時間経過を描くかというところに着目しつつ本を読んでいます。『ダンシング・ヴァニティ』ではそのたびごとに微妙に変わる「反復記述」によって、時間経過がより鮮明に描かれていると私は感じました。


続いて、作中のギャグについてです。
筒井康隆作品らしく、登場人物たちは記号性を持っています。あるタイミングで必ずあることをするという「お約束」が支配している世界なんですよね。それが「反復記述」によって、より強調されています。個別のギャグについて面白いと思うかそうは思わないのかは人それぞれ違うと思います。私、そして、今いろいろなメディアで素晴らしい作品を生み出している筒井康隆の影響下にある創作者たちは、面白い面白くないということを度外視してこういう世界に慣れ親しんでいます。初めてこの作家の作品を読んだ時からほとんど変わっていないであろう世界がこの作品の中で展開されています。
「匍匐前進」と「地雷原突破」は、ぜひアニメか実写で見たいです。


次にこれも筒井康隆作品らしい「反権威」についてです。
筒井さん自身がすでに「権威」の側の人間になっていると思っているのですよ。それでも作中での「反権威」という姿勢は変わっていないです。これはすごいです。ギャグにもなっているんですが、JASRACをネタにしている所なんかはうっかり笑ってしまいました。そして、主人公が権威側に立った時の行動。これが凄まじい。実社会でも、権威側に立っている人間が「反権威」的な思想を持っていると、その権威にすがりつく人にとっては地獄なんでしょうね。自分の権威が地に落ちることを恐れていないからむちゃくちゃできる。


もう一つ、技法的な話。
この本は章立てがありません。流れるように文章がつながっています。なのでなかなか途中で読むのをやめられません。京極夏彦作品を読んでいる人には、あれの逆、といえばわかりやすいでしょうか?京極夏彦作品ってページの最後は必ず句点じゃないですか。『ダンシング・ヴァニティ』は句点のこともあればそうでないこともあるけれど、話が切れないんですよ。場面やら時間やらがぽんぽん飛ぶことだってあります。ちょっと前に漫画の優位点として場面展開を描きやすいということを挙げましたが、この小説では、小説のその弱点をある程度克服していると思いますね。どうやって克服しているのかというと筆力でです。


一つ追加。選択される現実。
言うまでもないこと。ゲームの手法です。つまりは根っこのところが『ハヤテのごとく!』と同じってこと。あの漫画では登場人物それぞれが自分の物語を持つことによって選択の幅を事実上∞にし、その結果状況がある程度の幅に収まっていれば作者が思い描くエンディングに収まるという作りになっていますが、『ダンシング・ヴァニティ』では、むしろ主人公がつどいくつかの分岐を経験してそのどれかが選択されるみたいな形で物語がすすんでいきます。


最後に、やはり取り上げたいのが「死の予感」です。
子供の頃に読んだ筒井作品には無かった要素がこれです。天才作家が年輪を重ねるとこうなるのか、というのを生でみることができた私は幸せですね。


筒井康隆にはジャンルなんか関係ありません。この小説は純文学と言えば純文学だしSFといえばSFだし娯楽小説といえば娯楽小説です。恐ろしいことに未だに筒井康隆は進化し続けています。筒井康隆の影響を受けた創作者にさらに影響を受けた人たちが創作をして好評を博す時代になってもその歩みが止まっていません。
恐怖を感じますね。
最近ではハヤテを読んで以来の恐怖です。


私自身が考えていることは筒井さんが考えていることに非常に近いのではないかと思っています。でも、それは決して偶然ではない。私自身が自分の考えだと思いこんでいることは、実は子供の頃多大な影響を受けた筒井康隆の考えなのです。丸飲みしているだけで私自身のオリジナリティは無いんですよ。


筒井康隆ライトノベルを書くというのが話題になっていますが、たぶん筒井さんはこういいたいんじゃないかと思います。


かつて「SF作家」というだけで白い目で見られていた時代があった。そういう時代を乗り越えて今自分は「純文学」という別の世界で権威側の人間になった。「ライトノベル」についても同じ事がいえるであろう。もちろん、そのジャンルの中は玉石混淆だろうけれど、素晴らしい作品がいくつもある。そういう偏見をなくすため、そして自分自身にとっての挑戦のために「ライトノベル」を書くのだ。と。


『ダンシング・ヴァニティ』という小説は分厚くて取っつきづらい文体でなんとなくグロテスクな絵を想像してしまうような記述が散りばめられていますが、それでも最近の、漫画やライトノベルに親しんでいる世代の皆さんにも読んでみてもらいたいですね。そしてそういう人たちの感想もたくさん読みたい。なぜなら、根っこは同じだから。恐らく何かを感じてしまう人もたくさんいらっしゃるでしょうから。


追記:全然書き足りませんね。コーラスガールをわざわざ「コロス」と呼んでいる話とか、川崎医師の話とか。面白いんだよなぁ。めちゃくちゃおもしろい。