消費されることを望む『魔法先生ネギま!』と消費されることを拒む『ハヤテのごとく!』−それぞれの「ナギ」が持つ意味
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2006/5/6 ごーるど銀賞 消費し尽くされていくネギま!
『魔法先生ネギま!』22巻の感想を書こうと思ったのですが、単に感想を書くだけでは、たくさんある継続的に感想をアップしていらっしゃるサイトと違う感想になるとは思えませんし、需要もないと思うので『ハヤテのごとく!』との比較という形で書くことにします。
並び称される、というかライバルと目されている2つの作品ですが、漫画、特に女の子がいっぱい出てくるような漫画をほとんど読んでいなかった私にとっては、なぜこの全く違う2つの作品が似通ったファン層を持ち比較されているのか未だに理解できていません。
今日は冒頭に挙げた記事で呈示されている「消費」、そして「ナギ」という言葉をキーワードにして、私が何がどう違うと理解しているのかを書いてみたいと思います。
『ネギま!』を物語として見ると、「父と子」がポイントになっていると考えています。そこに恋愛や、魔法や、お色気や、バトルがからんで来ています。特徴的なのは、中学校のあるクラス全員の設定を用意し、それぞれの背後に物語を用意していることでしょう。現状では物語が作中で語られていないキャラクターもいると思われますが、いずれ触れられることになるのではないかと予想しています。
少女たちの設定。さらには物語の柱に直結する隠された過去も、すべて消費されることを前提としています。ごーるど銀賞で指摘されているように、消費すべき項目があまりにも多く存在するために、消費しきれない、そんなイメージを持っています。
それに対し『ハヤテ』では、いちおう主人公の借金返済が物語のポイントにはなっています。そこに『ネギま!』同様いろいろな要素が絡んできます。
ここで大きな違いがわかります。
『ネギま!』の場合、「父と子」という物語の柱が解決すると、物語自体も終わる方向に進むのに対し、『ハヤテ』の場合、借金返済をすると、一つの終わりにはなりますが、別の問題が発生することが当初から明示されていると言うところです。
『ネギま!』における鍵を握るキャラクターはネギの父、ナギ・スプリングフィールド(以下「ナギ」)です。『ハヤテ』で鍵を握っているのはメインヒロインの一人、三千院ナギ(以下「凪」)です。
ナギは仮想的な存在です。生きているかも知れないですが死んでしまったのかも知れない。断片的な情報が、読者にも、作中人物にも呈示されているけれど未だその実態は明らかになっていません。ナギという消えたキャラクターに対して、主要登場人物はそれぞれの人物像を抱えています。
それに対し凪は作中で実態を持つ存在です。隠された設定はありますが、それについて他の登場人物が興味を持つことは基本的にありません。他の登場人物たちはそれぞれの立場から凪に対しある種のイメージを抱いていますが、凪自信も変化していきます。そして、彼女が変化しないと物語は進まないのです。
つまり、ナギは不変の存在で、凪は変化する存在なのです。
不変の存在を消費することは、それがどんなに複雑な物であっても時間と労力を使えばできるかもしれません。しかし、変化する存在を消費するのは非常に難しい。どう変化するのか、というところまで予想した上で消費しなければならないのですから。
『ネギま!』は消費されることを前提とし、消費しようとしてもしきれないくらいの大量な情報を背後に潜ませています。それに対して『ハヤテ』は情報過多のように見せかけて、消費しようにも消費する対象が常に変化をしてしまうために消費しようがないという状況が作り出されているように思えます。
消費されることを望む『魔法先生ネギま!』と消費されることを拒む『ハヤテのごとく!』
消費という観点から考えると、この2つの作品はそう対比させることができるのではないでしょうか?