読書感想文 新井素子著『扉を開けて』 開かれていた扉

扉を開けて (コバルト文庫)

扉を開けて (コバルト文庫)

今日の感想文では一切の制約を無くします。必要とあれば他の作品を引き合いに出すことをためらいません。そして、必要ならばいわゆるネタバレも回避しません。ネタバレをしても原典を読んだ時に十分に楽しめる作品だという確信を持っています。この小説は、紛れもなく今の私を形作った本のうちで最も重要な1冊です。それなりの覚悟を持って感想を書いていきます。




さて、まずあらすじというか導入部分について簡単にまとめてみます。


主人公根岸美弥子(愛称ネコ)は超能力者。その能力が有るが故に友人らしい友人もおらず一人暮らしをしています。そんな彼女が心許せる男性がいます。彼の名は斉木杳(はるか)。彼にもテレポートという能力があるため主人公が唯一心を許しています。
ネコには最近気になることがある。同じゼミの山岸桂一郎が自分たちの「仲間」なのではないかと疑っています。しかし、正面切って「あなた、超能力者?」とは切り出せない。さてどうしたものか。
そんなある日、ネコと杳、そして桂一郎がネコの部屋で一同に会してしまいます。そして、扉を閉めると……。


月が2つ輝いている別世界に飛ばされたネコは、そちらの世界で「ネリューラ」という神格化された伝説の人物と見なされてしまいます。彼女はその世界から「ラディン」と名乗る人物によって呼び出された、そういう設定でお願いします、というようなことを耳打ちされます。その時杳は一緒でしたが桂一郎は別の場所に飛ばされてしまいました。


ネコを呼び出した人たちは支配者である「西の国」から虐げられている、その世界での「中の国」の人たち。そんな彼らを解放するために「ネリューラ」が召喚されたのです。ネコと杳はラディンたちとともに戦います。


「Go!」


という声とともに……


しばらくして、ようやく桂一郎と出会うことができました。ただ、彼は人間の姿をしていませんでした。彼は狼男ならぬライオン男だったのです。桂一郎は別の場所で、「東の国」から険しい山脈を越えて「中の国」にやってきたディミダ姫一行と出くわし、行動をともにしていました。
行きがかり上、ディミダとネコ(ネリューラ)は戦うことになります。そして、戦いの中から友情が生まれ、「中の国」を支配している「西の国」のディランIII世を倒すために行動をともにすることになります。






私はこの小説を20年ほど前に読みました。読み始めるまでは全く設定などを覚えていませんでしたが、途中から記憶がよみがえりました。記憶がよみがえるとともに、猛烈に面白さが増してきました。先がわかっているのに面白い、そういう作品です。
本来緊迫した話のはずなのに、微妙に抜けた設定や文体でそれを感じさせないというのは、最近のライトノベルに受け継がれています。ライトノベルを書いてらっしゃる人たちはおそらく私より年下だと思われますが、子供の頃、新井素子作品を読んで影響を受け「こんな小説が書いてみたい」と思った人も多いのではないでしょうか?


ただ、今のライトノベルとは決定的に違うところがあります。それは、少なくとも私の感覚ではですけれど、「萌え」という要素がない。
主要キャラクターに女の子が2人います。ネコ(ネリューラ)とディミダ。この2人、2人とも可愛い女の子として描かれていますが、それ以上にかっこいい女の子なんですよ。非常に強い。むろんそういう需要も有るとは思いますが、私の感覚ではこの作品には「萌え」はありません。


さて、上に挙げたあらすじを読んで、物語に詳しい方なら『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』の影響かぁ。と思われたでしょう。私は初めて読んだ当時は『指輪物語』を読んでいなかったので、オズの魔法使いを思い浮かべたのですが、まぁそういうファンタジーの類型にあてはまるような作品です。そして、ライトノベルに詳しい方ならおわかりでしょう。そう、私が最近読んで強烈にはまった『ゼロの使い魔』と似ている。『ゼロの使い魔』を読んだ時「ああ、月が2つか〜。そんな設定の小説も会ったような気がするなぁ、思い出せないけど」と思ったんですが、私にとってはこれだったみたいです。異世界に召喚されてその世界で別の名前をもらい、一種の救世主としての能力を発揮し、さらにはあらすじには書きませんでしたが、元いた世界に魅入られてしまうというような共通点があります。
それ以外にも、もっと根本的な共通点があります。それは『ゼロの使い魔』に限った話ではなく、日本の現代文学に共通する思想的な背景なのではないかと私は疑っています。


善と悪は絶対的ではない、という考え方です。


そして、それが日本では、一部の文学作品ではなく、大衆向け、さらには若者向けに書かれた作品の中で主流となっているのではないかと考えています。


ネリューラを召喚し、彼女を助け、西の国が本拠を置いているシャワまでの進軍を事実上指揮していたラディンは、西の国の支配者ディランIII世その人でした。
解放された筈の中の国の人々は、抑圧される前にもともと持っていた特性、その残虐さを発揮してディランIII世に指揮された軍隊を撃破していきます。彼は、彼自身の手で自分の部下を危険にさらしました。そして、彼自身も最後には討たれる。自分が討たれることで世界を動かしたい。そのために犠牲をはらってもやむを得ない。そんな考え方を持っていました。
絶対越えられないと言われていた山脈を越えたディミダ、この話には出てこなかった「南の国」の天才児カトゥサ、そして「非業の死」を遂げるディランIII世、彼らによってもう一つの世界は動き始めます。そのきっかけの一つを作ったのが別の世界から召喚されたネリューラとその仲間たちでした。




後書きについて触れておきます。


読んでいて気づかなかったのですが、オリジナルから2人称を変えていたんですね。当時は「おたく」という呼び方が書く方にとっては普通、その世界に馴染んでいない読者からすると一種の異化効果があったと思いますが、現代日本では別の意味を持つに至ってしまいました。


それはともかくとして……


私は『ハヤテのごとく!』という漫画を読み、「スーパーハイブリッド構造」という物語の今までにはなかった構築方法が現代の日本で産み出されようとしているのではないか?そういう仮説を持つに至りました。
それは決して突発的に生まれた考え方ではありませんでした。思い付いた時には突然降って湧いたように思えたアイディアだったのですが、実はそうではなかったのです。
後書きで触れられているように、新井素子作品の多くは根底の部分でつながっている世界観を持っています。そのうちどこを切り出して物語を作ったのか、私が子供の頃に読んだ時から、それをつぶさに後書きに書いて下さっていました。
だから、知っていたのです。複数の物語をつなげて一つの世界を描く、という手法については知っていたのです。


ただ、新井素子作品、たとえば『扉を開けて』は、私が定義する「スーパーハイブリッド構造」ではありません。そして、この世界全体が完成することになっても、おそらくは「スーパーハイブリッド構造」には成り得ないと思っています。それはたった一つ条件の漏れがあるからです。


終わりが決まっていない。


ハヤテのごとく!』は、連載初期の19話「使用人(かまい)たちの夜」で、終わりが決まっていることを早くも示唆しました。それで悩んでしまったのです。もし、終わりが決まっていないという前提なら比較的早く別の結論に到達できたと思うのですが、そうではなかった。『ハヤテのごとく!』の場合は「日付」がその条件でした。新井素子作品の世界にはそれがない。その1点で「スーパーハイブリッド構造」には成り得ない、そう考えています。




約20年ぶりに再読して、初めて読んだ時と変わらない面白さを感じ、さらには当時はまだ持つに至らなかった感想を持つこともできました。この作品は私の心に澱のように残っていて、この作品を読んでいたから、今になってライトノベルなどという若向けの小説を読んでもなんとかついていけるのではないかと思います。
因果関係上ありえないことですが、もし仮に、『扉を開けて』という作品が、ライトノベル全盛の今の時代に産み出されていたら、おそらくは文庫本1冊というサイズに収まることはなかったでしょう。この一連の話だけでもサイドストーリーも織り交ぜて10巻くらいになっていたでしょう。そして、ラストシーンでは賛否両論の意見がネット上でもリアルでも戦わされたのでしょう。




私にとって、この『扉を開けて』という作品は、それまで推理小説ばかり読んでいて馴染みの無かったファンタジー世界、そして、今になって読み始めた漫画やライトノベルの世界、その世界への扉を開けてくれた1冊の本に他なりません。


この小説の最後に書かれた言葉を借りて、この感想を終わることにします。


GO!
そして−あたしは、扉を開ける。




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