読書感想文 志賀直哉著『城の崎にて』

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

不純な動機でこの短編集を買ってみた物の、40才を過ぎた今、改めて読み返したら志賀直哉作品のファンになってしまいそうでびっくりしています。
この短編集を読み進めていて、正直『城の崎にて』は一番心には響かなかった。ただ、それでも面白い。そしてなにより読みやすい。すごいすごいとは聞いていたけれど志賀直哉という小説家はすごいんだなぁ。


この小説は一言でまとめると「『死』をテーマにした私小説」になると私は思います。山手線にはねとばされたけれど九死に一生を得た主人公が城崎温泉に療養に行きます。そこで、人知れず死んでいく命、多くの人によっておもしろ半分に奪われる命、そして、自分が全く意図せずして奪ってしまった命。それらを描くことによって、読んでいる人にそれぞれ違う『死』のイメージ、『命』のイメージを思い起こさせることに成功している作品だと私は感じました。
さて、志賀直哉作品に限らず、長い年月生き残っている作品の多くには、一読するだけではどうにも不自然に思われる描写があるのではないか?そんな仮説を私は持っています。『城の崎にて』にもそれはありました。
動いていた桑の葉が動かなくなる場面です。
主人公にはその理由は想像がついているのですが、読者である、少なくとも私にはそれがどういう理由なのかわかりませんでした。私の感性の問題なのか、あるいは、桑という農作物がポピュラーだった時代と現代との差なのか。それはわかりません。しかし、それがあることによって、この作品の中にどうにも心に引っかかるところができてしまい、それこそが魅力の一つに化けてしまいます。
平易な読みやすい文章であるにも関わらず、いや、だからこそ、というべきでしょうね、そういうところが気になってしまいます。もしかするとそれこそが作者の思うつぼなのかもしれません。


作中でも主人公の心持ちとして描かれていますが、作者は主人公の気持ちになって小説を書きます。それは今でも変わりは無いと思われます。*1この作品の場合、作者、志賀直哉はそれを余すところ描くのではなく、読者が想像力を働かせる余地を残して描いています。だから人によって全く違う感想が生まれる余地があります。


読書感想文には本来正解はないと私は思っています。






さて、ここまではこの記事を主に読むであろう小学生高学年から中学生、高校生を意識して書いてみました。題材の『城の崎にて』以外の作品を読まなくてもわかるように、すくなくとも『城の崎にて』が収録された短編集からは離れないように気を付けて書きました。ここからはそこからはなれて「私小説」について思うことを書いてみようと思います。
記事を書いている最中に私もはまりそうになったのですが、私小説の感想を書いていると「作者」と「主人公」の線引きをつい忘れがちなんですよね。この作品を作者が「随筆」「随想」ではなく「小説」として発表している以上、作り話、つまりはフィクションとして読むべきだと私は考えています。作者が創造した主人公が作者が創造した世界の中で何かを感じ、考え、行動している。むろんそこには作者の経験なり考え方も生きているとは思いますが、主人公の経験、考え方と決してイコールではない。そのことを常に念頭に置いておきたいです。
自分の創造した登場人物ならどう考えどう行動するかなのですよね。だから作中では自分の信念とはかけ離れた考え方を持つ登場人物を「正義」として描くことだって小説家ならやりかねないのです。


『城の崎にて』は失礼な言い方をすると身辺雑記系私小説なのかなぁと思いますが、あくまでもこの作品で描かれているのは現実とは違う別の世界です。しかし、この世界は極めて現実に近い。
私自身創作ができない(能力がない)のでわからないのですが、こういう『よつばと!』的な架空の世界を描くことと『魔法先生ネギま!』的なファンタジー世界を描くこと、さらには『ハヤテのごとく!』的なその中間を時系列だけを生かして描くこと、どれもそれぞれ違った難しさがあるんだろうなぁと想像しています。


本来こういう思考は学生時代に済ませるべき何だろうなと思いました。でも、私の持っている能力と嗜好では学生時代にこういうことを考えることはたぶん無理だったでしょうね。
『城の崎にて』、読み返してみてよかったです。この前に読んだのはたぶん小学生の時だったからねぇ。その時はいやいや読んだから何も心に残らなかった……。

*1:最近、漫画やライトノベルでそれとは違う作風が生まれつつありますが……