依存心がチャンスの芽を摘む

私も依存心が強いと友だちから叱責されることがしばしばあります。私の場合は、自分よりそのことが得意な人がいるんだったらその人に任せればいいじゃんっていう思いが強くてねぇ。
依存心にはもう1種類あると思うんです。自分以外の誰かが何とかしてくれるという心。むろん私はそっちも持ち合わせていますよ。他人にやってもらった方が楽。


しかし、実際問題、ネットでもリアルでも、他人に依存するって事は巡ってきたチャンスをみすみす逃している事に他ならないんじゃないか?最近そう思うんですよね。


前者の依存心。チャンスを逃すという意味ではそちらはさほど問題にはならないと思います。ええ。人としてどうかって言う話はさて置きですよ。自分より上手な人がいるのならその人にまかす。もしかしたら自分の眠っていた才能が目覚めるチャンスだったかもしれないっていう意味でチャンスを逃していることになる、っていう考え方もあるけれど、そんな偶然はめったにないでしょう。
問題は後者だ。誰かが自分のために何かをしてくれるという依存心。それが、結果的に自らに訪れたチャンスの芽を摘んでいる可能性があると私は思うんですよね。


わかりやすくネットを例にしましょうかね。
あるサービスが自分にとっては今ひとつ使い勝手が悪い。運営者に言ってもなんにもしてくれない。
さて、ここで問題だ。
そう言う状況に置かれて「運営は何もしてくれない」と愚痴るのがたぶん普通。しかし、そこで、「なら、自分でやってみよう」。そう考える選択肢だってあると思うんです。
こういう考え方のことを、極めて少数の内輪はでこう呼んでいます。


設営魂


学生の時とあるイベントのスタッフをしていました。そこでよく使われた言葉です。設営ってのは会場設営のこと。当日の設営もやるけれど、そのために使う看板とかも作っていました。企画担当の人が「ねぇ、こういうのない?」って聞いてくるのはよくあること。そして、それが無茶な要求だってこともよくあること。我々はそこでどういう道を選ぶか。予算が許せば、スケジュールが許せば自分たちで作るんだな。
目的の物がないと突っぱねることもせず、目的にあった物がハンズに売ってないと愚痴ることもせず、無い物は作る。それが当たり前の感覚でした。
そうすると、面白い物ができあがることがあるんですよ。どこにも売っていないけれど便利な物がね。


ネットやってるとそれと同じ事が起こるんですよねぇ。自分が欲しいと思った情報とかが見あたらず、しょうがなく自分でそれを作る。すると意外にもそれが他の人にとっても必要だったり面白かったりする物だったりして人が見に来る。そういうスパイラルがある。そうこうしているうちに気がついたらその分野でわりと知られた存在になり、全く期待していなかったお小遣い稼ぎにも貢献したりすることさえあるんですよねぇ。
もし仮に、それを誰かにやるように強要していたら自分ではそのチャンスはつかめなかったってことになります。




そもそも一方的に他人に何かをお願いするってことは、その人との対等な関係を築けないって事になると思うので、避けられる物なら極力避けたいと私は思うんですね。それは別に人対人の関係だけではなく、たとえば企業と従業員、国と国民でもそう。ただ「なにもしてくれない」と愚痴を言っているだけでは何も生まれないし自分自身もチャンスをつかめない。なにもしてくれないのならそれを打破するために自分自身が動く、そうすることによって、少なくとも自分自身とその周囲は少しだけ変わる。その積み重ねで少しずついい方向に転がっていくんじゃないかなぁと思っています。


口で言ったり文章で書くのはとても簡単なことですね。自分でもビックリしました(笑)。