信頼は「人」や「組織」に帰属しない

今日西武新宿線大変だったみたいです。私には関係がないのですがニュースで知りました。
さて、そのニュースの中に面白い見出しがあったんですね。

西武新宿線 田無−本川越で運転見合わせ

へー。そうなんだぁと思ったんですよ。
ところがね、実際に記事を読むと逆なんですよ。運転見合わせになっているのは田無−西武新宿だったんですよね。


その記事自体もうどっかいっちゃってるみたいだし、その見出しを書いた人を批判する気はないし、その記事を出したメディアを叩くつもりもありません。十分恥はかいたわけですしね。
でも、見出ししか読まない人たち(笑)もいるので、人の迷惑にはなったかもしれませんねぇ。その記事の見出ししか読まずに行動した人だっていたかもね。


繰り返しますが、その記事を非難するつもりはないのですよ。


なにがいいたいかというと、「2ちゃんねるとか個人のブログとかは信頼性に問題がある」という言説に異議を唱えたいのです。
レベルの差こそあれ、偽情報ってのはどこでもでてくるし誰でも出す可能性があるんです。信頼っていうのは「人」や「組織」や「場」に帰属するのではなく「情報」そのものに帰属すると私は思うのです。




私自身も振り返って考えてみると「人」や「組織」や「場」を信用してしまうことが多いです。おそらくはそれが既存の価値観なんでしょう。
しかし、インターネットが普及して個人が触れることができる情報の分量がかつて無いくらい多くなった現代社会においては、「情報」そのものの信頼性を見極めることが必要になっていると私は思います。情報の裏付けを取ることもある程度はできてしまうのですから。


「人」や「組織」や「場」を信頼するにしても、本来その責は信頼を捧げた本人が負うべきなのでしょうが、実際には信用を捧げた先に責任を転嫁することも多いです。その方が楽ですからね。「信頼していたのに裏切られた」という言葉に対して、有効な対応はなかなか見あたりません。たとえそれが筋違いな言説であったとしても。
だからこそ、その弱い立場をつく人たちがいるのは当然であって、当然なのでそういう人たちを非難してもしょうがないのです。


ただ、責任を他に転嫁していったい何になるのだろうか?という思いはあります。誰か、何かを信じて、裏切られるたびに、その信頼を与えた先を恨み非難する。それよりも、なぜ信頼してしまったのか、さらには、結果は自分の思い通りにならなかったけれど、自分自身が下したある人や組織を信頼するという決断に誤りはなかったなどと分析する方がよほど豊かな心持ちになれるのではなかろうかと私は思います。


それをさらに推し進めて、情報それぞれを自分なりに吟味して「人」や「組織」と切り離して判断する。それがゴールなのかなと私は考えています。




言うは易し行うは難し……
私が手軽にできることと言えば、信頼してはいけない情報を日々発信することくらいですね。