読書感想文 筒井康隆著『アホの壁』

アホの壁 (新潮新書)

アホの壁 (新潮新書)




普段、平積みになっているような新書にはあまり手を出さないのですよね。それも、わかりやすいタイトルがついている本には特に手を出さない。この本なんてまさに俺が手を出さない条件がそろっています。神田三省堂書店では平積みどころか山積みに待ってましたからねぇ。
でも、買っちゃった。読んじゃった。せっかくなので感想を書きます。
そう、書く人のアホさ加減が露出する様な気がして怖い『アホの壁』の読書感想文です。




笑えるんですよね。いちいち笑える。しかし、それは、腹の中から手放しで出てくるような笑いではなく、苦笑でもなく、嘲笑でもなく、乾いた笑いです。


人はなぜアホになるのか。アホなると人はどういう行動を取るのか。そして、人はなぜその境界線、すなわち「アホの壁」を乗り越えてしまうのか。それが生々しい実例を交えて紹介されていきます。
こういう人っているよね、と、思ったり、自分自身もこうなったことあるよね、と、非常に恥ずかしい気持ちにもなりながら読み進めました。
私見ですが、この本を読んで他人のことばかりを思い出す人はおそらくは壁の向こう側に行ってしまった人なのでしょう。だれもが1度や2度、いや、普通に生きていれば何度も何度も無自覚に乗り越えてしまったことがあり、そこから無自覚に戻ってきているから乗り越えたことにも気づかないのが「アホの壁」であると理解しました。無自覚であるから始末が悪い。なぜならずっと壁の向こう側にとどまるようになってしまっても、本人はそれを意識していないのです。いや、違うな。壁の向こう側に行っても壁のこちら側にいると思いこんでしまうのが「アホの壁」なんだな。だからこそ、壁なんだな。
その壁を乗り越えないようにする方法はおそらくは無いんでしょうね。乗り越えないことを考えるよりも、乗り越えたらそのことを自覚するように訓練することが必要なのではないかなぁと私は思いました。アホである自分自身を冷静に見た上で、それがむしろ良い方向に向かう潤滑剤として機能するようにコントロールできれば、ある意味で「アホの壁」を越えたと言えるのではないかと私は思います。




さて、以下は一般的な意味では余談ですが、この感想文の本題と言ってもいいかも知れません。ここから私は「アホの壁」を越えます。いや、無自覚にここまでも越えていたのかも知れませんけど……




前にも何度も何度も書いていますが俺は筒井信者です。様々な著作に影響を受けていますが、特に『48億の妄想』のヒロイン暢子に惚れてしまい、作中で描かれたその考え方を生涯追い続ける事になってしまいました。容姿がとか性格がとかいう意味ではなく、その魂に惚れてしまったんですよねぇ。その詳細は別記事に詳しく書きましたので省略。
そんな俺は『アホの壁』を読んで戦慄しましたね。いや、これは怖いことなんだな。今まで自分自身の考え方だと思っていたことが、実は影響を受けた他人の考え方の受け売りだったと気づくって本当に怖い。筒井さんの考え方に影響を受けていることは自覚しているのですよ。たとえば、『アホの壁』の中に見え隠れする、「強い物を笑い、弱い物を笑う、そして、自分自身を笑う」という考え方には強く影響を受けています。そして、その中からこの本に書かれたようなことに「自分自身で」思い至ったと思いこんでいたことがあったのですよ。
ところが違った。
その記述を実際に目にした瞬間、筒井さんの別の著作が頭に浮かぶんですよ。ああ、俺が俺だと思っていた部分は実は俺ではなく筒井さんだったんだなぁと思っちゃうんですよね。怖いよね。自我が崩壊しかねません。。。


そんな俺にとっては筒井さんってのは明らかに向こう側の人間なんですよ。真似をしようとしても無理。後を追おうとしても無理。ひたすらあしあとを探すくらいしかできない。そんな人。作品と作家は別物とか俺が言っている裏にはそういうコンプレックスがあるんじゃないかなぁと密かに思っています。自己を正当化し、自己を確立する方便としてその考え方に思い至ったのかなぁと。でも、もしかしたら「作品と作家は別物」って考え方自体も筒井さんか、あるいは他の俺が影響を受けた人からの受け売りなのかも知れませんね。もう慣れているからいいですけど……。


最後に1つだけ。


『アホの壁』は新潮新書というレーベルで発売されています。新書というのは自然、社会、人文科学を一般向けにわかりやすく解説した物であり、その中で著者の持つ考え方を主張する物なのかなとイメージしています。
しかし、『アホの壁』の著者は筒井康隆なのです。
信用できないんですよ!全く信用できない!著者の考え方なのか、そういう考え方をしている人を演じているのか、著者の経験談、あるいは著者が人づてで聞いた体験談なのか、著者が創造した、あるいは著者が脚色した実例なのか区別がつかないのです!創作部分を真に受けて吹聴する読者をみてほくそ笑んでいる顔が容易に想像できてしまうんですよね。
そういう意味では冒頭にリンクをした志賀直哉作品と同じ受け止め方をしたといってもいいでしょう。先日感想を書いてリンクを上の方に貼った志賀直哉氏の『雪の日 −我孫子日誌−』は小説として発表されているみたいだけれど随想と見分けが付かない。『アホの壁』は新書レーベルで発売されたけれど創作との区別がついていません。


しかし、よくよく考えてみると、その区別自体意味がないのかなぁと思うんですよ。


面白ければそれでいい、それが役に立つのならなおさらいい。
そういう考え方もまた、俺が筒井康隆から学んだことです。それを聞いて筒井さん自身がどう思うかとか、方向性として人としてどうなのかはわからないけれど、残念ながらそれは動かせない事実です。