読書感想文 志賀直哉著『小僧の神様』 志賀直哉、恐るべし

毎年この時期に1本は書こうと思っている「需要のある」読書感想文。今年はまず『小僧の神様』から行ってみます。


この小説で読書感想文を書いた記憶、あります。小学校の時だったと思います。だから、たぶん30年以上前に読んだことがあるんですよね。
読み返してみると当時は全く気づかなかった、というか気にもとめなかったところに目が行ってとても面白かったです。




この作品のあらすじは至る所に転がっているでしょう。
秤(はかり)屋の小僧、仙吉は寿司が食いたくて食いたくてしょうがないんだけれどお金が無くて食えない。その仙吉が寿司屋で恥を書くところを偶然見ていたAという人、貴族院議員というからには偉くてお金も持っているんでしょうね、が、これまた偶然仙吉と再会して寿司をおごってあげる。Aはいいことをした、仙吉は願いが叶った。しかし何とも割り切れない思いに襲われる、とまぁそんなお話です。


子供の頃に書いた読書感想文では、おそらく仙吉かAのどちらかの心情を考えてそれっぽく原稿用紙を埋めたんじゃないかなぁと思います。Aの方がわかりやすいかな?なぜ「一種の淋しい変な感じ」を持ったのか、それを想像して書き連ねたんじゃないかなぁ。
仙吉は仙吉で、どうして望みが叶ったのに手放しで喜べなかったのかなぁと、それを想像してみる。
この作品で読書感想文を書くのならそれがいいと思います。


しかし、それから30年以上たった今読むと、全然違う方向の感想文を書きたくなっちゃうのが不思議ですね。




この小説は三人称で書かれています。ところが途中で視点が変わるんですね。仙吉を主軸にした視点からAを主軸にした視点に変わる。おそらくは、だからこそ上で書いたように仙吉とA、両方の心情を考えやすくなっていると思ったんですね。
しかし、この短い小説の途中で視点を変えるという「わかりづらい」ことをやっているのに、とても「わかりやすい」小説になっているんですよね。それがすごい。
あと、細かいところですが、上でわざわざ漢字で書いた「秤(はかり)」。地の文では漢字なのですが、Aの会話文の中ではひらがなになっています。もちろん作者のミスではありません。わざわざ傍点まで振ってますから。その文字の使い方一つをとっても「そこには何らかの意図がある」と思ってしまいます。おそらくは貴族院議員という多くの人にとっては浮世離れした存在を際だたせる舞台装置の一つなのではないかなぁと思いました。


さて、最後ですがここからが本題。


この小説のラスト、覚えてなかったです。読んでなかなか衝撃を受けました。
今風に言うと「メタ」な視点になっているんですね。突然作者が出てくる。そして、その作者が「こういう風に書こうと思った」と言い出す。その結末も明かしてしまう。しかしそれではあまりに残酷なので書かないことにしたと「書いている」。
これ、面白いですよねぇ。作者としての結末は用意してある。しかし、書いてあることを言葉通りに読むと読者に「結末を委ねる」形になっています。
だから、この小説の感想文としてこういうのも有りだと思うんですね。
「自分の考えた結末はこうだ!」と言い切ってしまう感想文(笑)。
作者により材料は与えられている。その材料をいかに料理するか、それは読者に委ねられているようにも見えるんです。
たとえば仙吉がAと再会し、そこでまた気まずい気分になってもいいし、あるいはこの事件をきっかけに仙吉が出世街道を登り詰める物語にしてもいい。それはそれで面白そうじゃないですか。


小僧の神様』という非常に短い小説の中でこれだけいろいろなことを読者に考えさせてしまう。おそらくは読んだ人によって全く違う感想を持たせてしまう。
今さら私ごときがいうのは失礼なのですがね。


志賀直哉、恐るべし……