読書感想文 畑健二郎著『海の勇者 ライフセイバーズ』2回目

こちらも2回目の感想ですが、状況がずいぶん変わってきていますねぇ。

  • 2006/12/27 畑健二郎著『海の勇者ライフセイバーズ』これはどう見てもプロトタイプ




表紙とカラー扉絵

そこそこ大勢いる『ハヤテのごとく!』読者の購買意欲を刺激するという意味で、今の絵柄を表紙に持ってくるってのはあると思うのですが、同じ構図である必要はないわけで(笑)。チャレンジャーだなぁ……
昔の絵柄を見るとコナンっぽいなぁと思いました。

本編

1話 「夏はやっぱり海ってことか」

くそぉ。面白いじゃねーか!
16ページ目1コマ目、わかってても吹いたぞ。ひどい話だけれど吹いたぞ。
まっ、これを面白いと思うのかどうかは人それぞれでしょうけれどね。

2話 「オーストラリアから来た意味はあんまりない」

謎の外国人ギルバート。離水するギルバート。わけわかんねー。

3話 「男だらけのビーチバレー大会」

作者はビーチバレーのルールを相変わらず知らないみたいですが、発表タイミングを間違うと不謹慎ネタになりますねぇ。
ギャグ漫画はこうでないとね。

4話 「松方ビックリ釣り紀行」

嘘はついていない。めちゃくちゃだ。オバケ魚、良く思い付いたなぁ。

5話 「どうしてこんなところに来てしまったのだろう」

なぜ巨大ロボが出てきたり海底人が出てきたりするのかというのを考えたらきっと負け。

後書き

まとめでね。まとめてね。

まとめ

昔の感想でも書いたけれど、結果的に『ハヤテのごとく!』のプロトタイプになっているなぁと思います。キャラで見ると、かぶっている人を除いて、朝凪かすみさんはマリアさんのプロトタイプかなぁと。妖怪、ロボの類はそのまんまだし。なによりも、ギャグの質とかテンポはこの時からあまり変わっていないなぁと思います。
「ライフセイバー」が「執事」に変わったのと、主人公がヒロインに恋をしているという少年漫画の王道的設定から、主人公が女の子に持てまくるという今風の設定に変わったってのは大きいですけどね。やっていることは似ている。


しかし、当然ただのプロトタイプではないことは、この本を読めばわかるわけで……。
まず、南野宗谷やギルバートというキャラがかぶっている。それについてはずいぶん前に後書きかバックステージで触れられていましたが、『ハヤテのごとく!』は現在2005年5月であるのに対して、『海の勇者ライフセイバーズ』は2005年7月か8月の話すですよねぇ。あと数ヶ月後にこういう事件が起こるということ。それは『ハヤテのごとく!』の連載が始まったとき、もしそこまで連載が続けばそうなるとあらかじめ決まっていたことですよね。
ハヤテ本編にも瀬戸美海は出てくるのだろうか?出てくるんじゃないかなぁ。畑健二郎さんなら出すように思えます。




さて……




『海の勇者ライフセイバーズ』の主要登場人物である戦部大和。
予想通り、というかわかりやすい伏線が張られているわけで織り込み済みと言った方がいいでしょう、戦部大和はどうやら綾崎ハヤテの兄のようです。
兄弟そろってむちゃくちゃな強さです。兄は男っぽいわかりやすい強さですが弟は女の子みたいな顔をしているくせに強いです。
後書きでこの先の展開が明かされました。大和は記憶喪失なのか……。そして、その噂を聞きつけた弟が、少女を連れて向かえに来るという話があったのか……。
それだけ聞くととってもベタな展開なんですよね。でも、やっぱおかしい。なにがおかしいってそれをわざわざ事前に公表することがオカシイ。
どう考えてもおかしい。必要性が見あたらない。この作者、何を考えているのかわからない。


しかし、個人的にはこうやって情報を公開されると余計に興味を持ってしまうんですよねぇ。正直、記憶喪失とかいきなり持ち出されたら、俺の場合は萎えると思うんですわ。畑健二郎さんの場合そういう描き方はしないと思いますけど、もし仮にその設定をドラマチックに明かされたりしたら「おいおい」と思ってしまう。今回やったように事前に情報を公開されていれば何の感慨もなくすんなり受け入れることができますねぇ。その受け取り方については個人差があると思うので人によっては「作者本人によるネタバレ」を良しとしないかもしれません。


ハヤテと大和、あるいはイクサの再会で、ハヤテと一緒にいる少女は誰なんだろうなぁ。そもそも、当初考えていたシナリオとは変わったと思うので、何人かで海にやってくるんじゃないかと思いますが、メインになるのは誰なんだろうなぁ。
人間関係から見ると、やっぱりアーたん、天王洲アテネですかね。命の恩人フラグが立っていますからねぇ。噂を聞きつけてハヤテと一緒に会いに行くという動機が強いのは、今のところアーたんしかいない。
その噂はどこから来たのかと考えると、美海たちとハヤテとの間に、ここまでで再度関係が構築し直されるとしか思えないです。その舞台装置が「喫茶どんぐり」かなぁと。宗谷や美海たちにとっては、同級生(西沢歩)がバイトをしている喫茶店なので入り浸るにはぴったりです。


畑健二郎さんはどうもキャラ中心に物語を組み立てているように見えます。
『海の勇者ライフセイバーズ』の先の話の場合、まず、「大和って何物?」っていう疑念が作者の頭に思い浮かび、そこで記憶喪失っていうネタが出てきた。そこから、大和を探しに来る弟っていう話を思い付いて、その弟がどうして大和のことを知ったかって事を考えて、弟と宗谷たちが同級生っていう設定が出てきたんじゃないかなぁ。さらに、弟一人で訪ねてくると話に広がりがないとかまぁ理由はわからないけれどとにかく弟と一緒に少女もやってくるようにしようと考えて、なんでそこで女の子が一緒に来るのか?と言うところで、かつて大和が救ったアテネ(当時はきっとナギという名前)とハヤテの話が産み出され、そこから『ハヤテのごとく!』ができてきたのかな、そんな風に思うのですよ。
そう思うのは、『ハヤテのごとく!』での日比野文がどうして産み出されてたか、ってことを読んでいるからですね。
彼女のできかたはそんな感じじゃないですか。「病気の娘」っていうどう考えてもどうでもいいその時だけの設定にしか思えない話を膨らませて、あの強烈に空気を変えるキャラを作り出してしまった作者ですからね。キャラを思い付くと、その性格づけとかデザインとかだけではなく、その背後の物語も考えてしまい、さらにその背後の物語どうしの関連をつけてしまう。それが畑健二郎という作家の特徴なのではないでしょうか。




ここから、解説に書いてある鬱系な話について触れます。


まずは、『海の勇者ライフセイバーズ』創作の際に考えていたことについて。
無茶している。本当に無茶している。そしてその無茶を未だにしている。売れるために、認められるために無茶をしたのかも知れないけれど今ではその無茶をすることが作風になっている。そんな印象を持ちました。
「次の展開を想像すらさせない漫画」というのは口で言うのは簡単だけれど、考える方は大変ですよね。関連性の無いものを無理矢理関連づけて一つの漫画にしなきゃらないんですからねぇ。
そしてそれは結果的に、その方針が『ハヤテのごとく!』につながったんでしょうね。
ハヤテ25巻を読んで「3つの別の漫画が1冊の同じタイトルのコミックスにまとまっている」という印象を持ったのですが、アテネ編が終わった後の展開はまさに「想像すらさせない」でした。どうみてもあの話はあれでお終いなんですよねぇ。想像できるとしたらアテネとハヤテが再び出会って……っていう展開くらい。しかし、ナギが遺産を失ったって言う話なので、いきなりそうなることはないと思っていました。むちゃくちゃなんですよね。そうか、わかった。先が読めないのは当然なんですよ。そもそも関連性がないんだから。単に同じ時空で起こったイベントを若干の例外はあるけれど原則として時間軸をキーにして描いているだけなんだから。時間を軸にすることによって、話を追うことはできるけれど、話の展開自体は読めなくなっちゃって、あらすじすらうまいこと言えない漫画になっちゃったんですよねぇ。


結果的には、それが、漫画のみならず、フィクションを描く上で今まで無かった手法を産みだしたんですよねぇ。ああ、これはあくまでも俺の個人的な意見ですよ。そうは思わない人もたくさんいるでしょうね。


そんな畑健二郎さんと漫画賞に縁がなかったって事もなんとなくわかる。本人が言う「漫画家としての才能がない」という理由ではないように思えます。言ってみれば「漫画賞を取る才能がない」んじゃないですかね?
『神様にRocket Punch!!』も『海の勇者ライフセイバーズ』も面白いです。面白いけれど、漫画賞に応募してくる作品の中で一番面白いとは限らないでしょう。もっと絵がうまかったり、もっと強烈な才能を感じさせる話は毎月なんかしらでてくるのかもしれない。畑健二郎さんの漫画家としての才能は一本の短い作品で表現できる物ではなくて、ある程度の水準を保った作品を大量に産み出す能力と、それらの作品を関連づける能力にあるんじゃないでしょうかね?だから漫画賞には縁がない。外野からの勝手な意見ですが、俺はそう思いました。




『海の勇者ライフセイバーズ』だけの感想ではなくなってしまいました。こういう感想文を書くのは好きではないのですが、今回このタイミングで短編集が発売された理由は『ハヤテのごとく!』との関連性を見て欲しいということとしか思えないのでこんな感想になってしまいました。
『海の勇者ライフセイバーズ』の主要登場人物はハヤテと西沢さんの同級生だったりハヤテの兄だったりします。彼ら彼女らが『ハヤテのごとく!』の登場人物たちと交流する夏はいずれ描かれるのでしょう。何年後になるかはわかりませんが、楽しみに待っていることにします。