読書感想文 歌野晶牛著『ROMMY 越境者の夢』 未だ夢の続き……

私が書くのは読書感想文です。レビューは書かないし書けません。評論や批評なんて書けるわけがない。
この作品は推理小説とも言えます。推理小説の感想を書くことは非常に難しいです。推理小説である以上、謎があります。その謎がその作品のテーマと言ってもいいことも多いのでそこを避けて感想を書くことがとても難しいのです。
しかし、この作品の感想はどうしても書きたい。そう思わせるだけの作品でした。読み終わってからまだ1日しか経っていません。全く消化していません。でも、このタイミングでどうしても感想を書きたい。本来ならPCは立ち上げずにテレビにかじりついていたいスーパーボウル当日の夜だというのに、書きたくて書きたくてどうすることもできないのです。


まだこの作品を読んでおらず、この先読む予定がある人が、もしこの記事を目にした場合は、この記事は読まないことをお薦めします。そして、気が向いたら『ROMMY 越境者の夢』を読んだ後で読みに来て下さるととてもうれしいです。
メイントリック、あえてその言葉を使いますが、メイントリックは明かしません。でも、たぶんきっと勘のいい人なら気づくようなことを書いてしまうだろうし、この作品にとってはメイントリック以上に重要なことではないかと私が思ったことを書いてしまうでしょうから。








































冒頭で「推理小説」と書きましたが、この小説は私が思っている「推理小説」ではありませんね。謎はある。しかしそれは作品を彩る飾りにしか過ぎないです。新装版の冒頭で作者はこう書いています。

今もしこのテーマ、このサプライズで書くとしたら、(中略)殺人事件も発生させないだろう。

これは強烈なネタバレです。多くの場合推理小説での根幹となるはずの「殺人事件」がこの作品では必要不可欠なものではないのです。私もその言葉を鍵にして読み進めました。そして、読み終わったとき、作者の言葉の意味がよくわかりました。あくまでも個人的な感想ですが、殺人事件はむしろいらなかった。この作品にとっては異質な要素であるように思えます。その事件によってもたらされる感想も当然ありますが、別の仕掛けでも同様の効果をもたらすことはできたはずです。


謎はある。しかし、それは「殺人事件」の謎ではない。もちろん関わってはいるけれど本質的なところではないのです。




作中で「ROMMY」は殺されます。殺された上にバラバラにされます。誰が殺したのか、誰がバラバラにしたのか、読み進めて行くと自然と読者はその真相に行き当たります。というよりもあからさまに書いてあると言ってもいいでしょう。しかし、それでもまだ物語は続きます。そして謎が明かされる……。それでもまだ物語は続く。そして物語が終わる……。それでもなお、物語は続いていくのです。なんともやるせない、なんとも切ない、それでいて不思議と満たされる小説なんです。




ある時、名作と呼ばれるようになる条件の一つとして、一つの作品に対して人によって全く違う感想を持つ、ということに気づきました。もちろん例外はあるし、そういう資質を持っていても名作にならない作品はたくさんあるはずです。
私はこの『ROMMY』という作品は名作となりうると思いました。人によって違う、などという生やさしい物ではなく、私一人の頭の中でいろいろな感想がごちゃごちゃになっているのです。
まずは主人公が誰か、という話しから考えてみましょうか。普通に考えれば表題にもなっているROMMYなのですが、そのROMMYを作り上げた中村茂こそが新の主人公と言ってもいいでしょう。そして、推理小説として考えれば、殺人事件とラストシーンに置いて重要な役割を果たす東島邦紘が主人公かも知れない。人によってはまた違う登場人物を主人公として見てしまうかも知れません。
この作品では、どの立ち位置に立つかによって思うところが変わってしまうんですよね。
当たり前のことなのですがこの作品の登場人物はみんながみんな自分のロジックで行動をしていて、そのロジックを踏まえた上で考えると、みんながみんな恐ろしく優秀なんですよ。作中では揶揄されている人だってものすごく優秀だと私は思いました。でも、ロジックは違う。だからぶつかり合うんですね。
いずれにしろ、この作品が本当に名作となるのか否かは、さらに5年10年の年月が必要になるのでしょう。




書こうと思えばいつまでも感想を書き続けることができるように思えますが、ここまででも十分散文的な繰り言になってしまっているのであと2点だけ書いてこの感想文を終えることにします。






この作品には罠があります。




どのくらいの人が引っかかったのかわかりません。私はものの見事に引っかかりました。引っかかって、猛烈な自己嫌悪に陥りました。


秘密の開示の直前、ROMMYは語ります。

わたしが過去を語れば、人は必ずそれをキーワードとしてROMMYの音楽を読み解こうとするでしょう。あれこれねじ曲げた、頭でっかちの、不毛な解釈で。

この言葉は、私が読書感想文を書くときに気をつけていることそのままです。作品と作者とは別。まずは作品は作品として捉えるべき。本当に良い物は誰が書いたのかなどという属性は関係なく良い物である、と。
しかし、秘密の開示の後。私は、極めて自然にその行動を取っていました。


作中に散りばめられていたROMMYの詩に、伏線となるような言葉がないのか探し始めていました。


苦しいです。なんとも……。言葉では何とでも言える。行動が伴っていない……。まさか作中でそんな罠に引っかかるとは思ってもいませんでした。
それでも、自分が考えていることと同じようなことを言ってくれる作中の人物がいたことはとてもうれしく思いました。苦い、苦しいうれしさではありますけれど……




ようやくこの感想文にも終わりが近づいてきました。この感想文の終わりには、作中の終わりにあったこの言葉を引用したいと思います。

でもROMMYの音楽が本物の力を持っているのなら、(中略)生き続けるはずです。
答えが出るのは、五年後、十年後です。

呆然としましたね。この本、もしかしたら読んだことがあるのかも知れないとも思ったし、その疑念を未だにぬぐい去ることはできません。でも、秘密の開示の直前に背筋が寒くなる独特の感覚を持つことができたので私の本能は初めて読んだと言っています。
おそらくは、別の出典がどこかにあるのでしょう。


とにかく、これを読んで泣きそうになった。っていうか泣いた。小説だろうが漫画だろうがなんだろうが全面的な共感をするってことはめったにないですがこの言葉には全面的に共感してしまった。共鳴したと言った方が伝わるような気がする。
今日の感想文でも敢えて使いましたが、そうなんですよね。今現在人に受け入れられるかどうかではなく、5年後10年後に残っているかどうかなんですよね。
不思議な縁があって何十年も前に発表された名作と呼ばれる作品を何作か読むようになってから、私は感想を書くときに自然とそう言う視点を持つようになっていました。この作品は5年後読んだときにどういう見え方がするのだろうか?と。10年後呼んだ時に自分はどういう感想を持つのだろうか?と。


偶然、というか普遍的な話とはいえ、直接自分の考えに一致する言葉を作品のラストシーンで目にできることは、一生の中で一度あるか無いかの出来事なのでしょう。








ROMMYは死んだ。しかし、作中の時間は今でも流れ続けている。その時間の中でROMMYの作品は未だに生き続けているのでしょうか?歌野晶牛氏が産み出した架空の時空のことは、読者である私は想像することしかできません。
もしかなうことならば、ROMMYの歌は今でも行き続けていて欲しい。中村茂と杉下裕美が産み出した夢は、今でも続いていて欲しい。残された中村茂にとって、どんなにつらいことであっても生き続けて欲しい。それが2人が産み出したROMMYの夢なのだから。