アニメを見て初めて気づいた『神のみぞ知るセカイ』が抱える根本的な矛盾

小説や漫画を読むのに比べるとテレビでアニメを見るのは苦手です。何十分かの時間を作り手のタイミングに合わせて過ごさなければならないですから。しかし、この作品の場合は、原作の漫画になかった魅力をアニメ化によって手に入れたように感じました。
そして、読者・視聴者の多くが本能的に理解しているはずの、この作品が抱える根本的な矛盾にようやく気づくことができました。




本題に入る前に、まずはそのことに気づいたきっかけとなったアニメ版のかのん編について考えてみます。
この話は3話に別れて放映されましたが、1話目の放送を見た後にこんな感想を持ちました。

作り込みと声優さんは大変だとは思うけれどうまく作るととてもアニメ映えするだろうなぁと想像していましたが直球勝負で楽しめました。

そして、2話目を見ずに(録画失敗)3話目を見た後

この話は漫画よりもアニメの方が(ちゃんと作れば)やっぱり向いていた。

という感想を持ちました。
1話目の感想で書きましたが、アイドルの歌と踊りをアニメで再現した上で、作中では「心のすきま」と表現されている内面での葛藤を描いているからそう思えたのです。
作り手には失礼ですが、想像していたよりずっと面白かったので、最近に始まった再放送で取り損ねた分を含めて改めて見直してみました。かのん編はまだ見ていなかった2話目を含めて見ることができました。


そこで頭をよぎったのは『富豪刑事』でのエピソードです。
その作品を知らない方もいるかと思いますので、ネタバレにはなりますが関連する部分のみを要約します。
金の力で事件を解決する刑事が、犯人とおぼしき登場人物を罠にはめるために会社を作ります。犯人をだますことができればそれでいい、という会社ではあるのですが、だますためにはだます方は本物でなければならないという主人公の父親?の考え方により、主人公の後ろ盾となる人たちには、本物の技術者、本物の事務方が配置されます。
その結果、目論見通り犯人は完全にだまされて罠にはまります。しかし、結果的にだますためだけに作った会社が作った製品は売れまくります。。人をだますためのニセモノを作るために本気で取り組んだ結果、本物が産み出されてしまう。そういうお話です。


かのん編を見てこの話を思い出したのです。もしかすると作り手は「往年のアイドル歌謡を再現」しようとしたのではなく、「本物のアイドルを作ろう」としたのではないか。テレビに頻繁に露出したり、このアニメの存在を知らない人たちをターゲットにするCMに使われたりする本物のアイドルを作ろうとしたのではないか。本当に劣化しない真のアイドルを作ろうとしたのではないか。逆に、そのくらいの作り込みをしないと、架空の世界の中であっても「国民的なアイドル」という設定の登場人物をある程度のリアリティをもって描くことは難しいと考えたのではないかと思ったのです。
もし仮にそうだったとしても、作り手の目論見が現実の物になるとは思えません。しかし、そこまで思い詰めて作り込んだのかもしれないなぁというくらい凄みを感じました。初めて見たときより2回目の方がすごいと思えるっていうのは相当な物です。
ただ、冒頭でも書いたようにアニメが苦手な人が見て、という但し書きはつきます。たくさんのアニメを見ているファンがどう思ったのか、想像することはできません。

アイドルってのはリアルじゃいけないのかなぁと思うんですよね。本来は。あくまでも手の届かないところにいる存在じゃないといけないんじゃないかと。情報化の発展などで、現実世界でそういう存在を作り出すことが難しくなった今、架空の世界、そう、そこにはいわゆる2次元も含みます、が、そういう需要を満たす受け皿になっているんじゃないかなぁと思ったりしています。

作中でそういう存在であると描く以上は、現実世界でも通用するような架空の登場人物を作り出さないと説得力がない。特にこの話のように、作中で一種の架空の存在であるアイドルから、現実でも存在感を見せるスターに変わるような登場人物を描くことはできないのではないでしょうか。そして、これは蛇足ですが、アニメとその中でキャラクターを演じる声優さんというのは、現代では、かつてのアイドルに近い存在にいるのではないかなとも思います。


作中で描かれる架空の世界。それはどちらも現実世界からみると架空の世界であることには変わらないのにあたかもそれもまた一つの世界のように感じます。
神のみぞ知るセカイ』という作品は、それ自体が架空の世界の入れ子構造になっています。それ自体は多くの作品にも言えることで決して珍しいことではありません。




しかし、このアニメを見て、意図的にかそうでないのかはわかりませんが、この作品の持つある仕掛けに気づきました。




主人公はゲームの世界に入り浸り現実と向き合おうとしていなかった。しかし、エルシィが乱入してくることによって二つの問題が発生した。
一つは、作中現実と向き合わざるを得なくなったこと。
そして、もう一つは、作中現実の方が作中の架空世界であるゲーム以上にファンタジックになってしまったこと。
そして、そこに矛盾が生じています。




主人公の桂馬は、今まで生きてきた「日常」を取り戻すために作中の架空世界であるゲームに入り浸ろうとするのです。今までと同じように架空の世界と向き合うことによって、エルシィが空から降ってきたことによって失われた「日常」を取り戻そうとしているのです。
この作品の主人公は、ファンタジックな世界に憧れる登場人物ではなく、むしろ「日常」を淡々と送ることを望んでいます。現実世界を唾棄すべき存在とみなしていますが、「日常」は愛していたんです。むしろ、「日常」を守るために架空の世界に閉じこもっていたのです。だからこそ、現実世界が壊れて「非日常」化してしまった今、ゲームをすることによって「日常」を取り戻そうとしているのです。


原作を読んでいて、本筋とは関係ないはずのゲーム関係の話を面白く感じた理由の一つはここにあるのではないか、とようやく思い至ることができました。
ファンタジックな世界に放り込まれた日常を愛する主人公。それ自体は良くある設定です。しかし、この作品では、その主人公が日常を取り戻すために架空の世界に入り浸るという方法を取っているのです。




いつの日か桂馬はかつての日常を取り戻せるのでしょうか?そうは思えません。たとえ取り戻せたとしてもエルシィと出会う前の日常はもう戻ってこない、という話の流れになっていると想像しています。他のキャラクターも含めエルシィをはじめとする非日常的な登場人物に出会う前の方が幸せだったのか、出会うことによって幸せをつかめたのか……。
それは読者が決めることではないでしょう。作中でキャラクターそれぞれが自分の中で感じること。そして、それが創作物である以上は、創作者、すなわち神のみぞ知ることなのでしょう。


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