読書感想文記事を書く理由

この日記に読書感想文に困った向け人の記事を意識して書き始めたきっかけは検索誤爆でした。そして最初に書いたネタはタイトルでの釣り記事でした。
それから5年。まだ5年なんですよね。
毎年一度、夏休みの始まる頃に読書感想文についての総論的な話を書いています。それも今年で終わりかも知れません。ネタはもうありません。


今年は読書感想文サイトとしてのこの日記にとって、特別な区切りになるかもしれません。その理由は2つあります。1つは9月に書くであろう8月のアクセス解析記事で触れることになるかなぁと思うのでここでは書きません。もう1つはこの前の冬に個人的には衝撃的な依頼が舞い込んできたことです。


あるテレビ局の報道バラエティ、そんなカテゴリーの番組は無いと思うのですが、私はそう呼んでいるし、読者の皆様もきっと「あれとかあれだな」とわかってくれると確信しています、のディレクターを名乗る方からインタビューが可能かという打診を受けました。
この日記サイトの記事を横断的に読んでいる方は、おそらく私と同じ疑問を持つと思うのですよね。
「いったいどの分野のインタビューなのだろうか?」と。
依頼のメールを読んだところ当時話題になっていたある事件について、読書感想文サイトを作っている人としての考えを聞かせて欲しい、という内容でした。
その事件について、私はすでに別の立場で記事を書いていましたし、依頼文面から類推して、その番組の編集意図とは合わない意見を表明することになってしまうということもあり、丁重にお断りしました。というとかっこいいのですが、実際にはメールを確認した時にはすでにその番組の放送が終わった後だったので、恥ずかしくてお断りのメールすら出すことができませんでした……。


おそらく、インタビュー依頼は大勢にしているはずです。色よい回答を寄せた人の中から、編集意図に合致する発言をしそうな数人に実際にコンタクトをして、さらにその中で番組内で使いやすい発言があったインタビューを使うことになるのだろうなと思います。思います、というか……。そういうものらしい、という話です。ぶっちゃけ、その番組は見ていないので想像で語るしかありません。


驚いたのは、読書感想文に関するインタビュー対象として、私の日記が引っかかったと言うことです。検索してみるとわかりますが、読書感想文サイトというのは案外とたくさんあります。その中ではこのサイトはまだ下位に位置していて、よほど困って必死に検索した人しか来ないのではないかと思っていました。
どうやらそうではないらしい。
自分自身の問題を解決するためではなく、読書感想文サイトを手軽に見つけようとしている人もここに来る可能性があるのか。テレビ局のインタビュー依頼の一件でそう思いました。
そしてこの日記が読書感想文分野でメディアに露出する可能性が0では無くなったのか、とも思いました。


今まで、そしてこれからも、私は好き勝手に思ったことを書くだけですが、周囲の環境はかなり変わってしまったのかなと感じました。そして、今年以降は昨年までとは違う読まれ方をする可能性を否定できなくなりました。




そこで今年は、読書感想文を書こうとしている人だけでなく、それを評価しようとしている人に向けて、5年間読書感想文関連コンテンツを積み重ねて感じたことを書いてみようと思います。








冒頭にも書いたように、読書感想文を集積しようと思ったきっかけは検索誤爆でした。正直、微妙な気持ちになりました。
「読書感想文 パクリ 無料」というキーワードでしたから。
当時はほとんど読書感想文関連コンテンツが無かったとは言え、自分の書いた文章を無料でパクることを目的に読みに来る輩に良い感情を持つわけがありません。
しかし、ちょっと興味を持ってそのキーワードや周辺の言葉で検索をしてみて、あることに気づきました。


もし、自分が読書感想文に詰まっている子供だったとした場合、役に立つサイトが無かったんです。この「自分が」というのがポイントです。ここよりも大勢の子供が読みに来るサイトはたくさんあるし、そこだって役に立っていると思うんです。でも、「私」の役にはあまりたたなそうに感じたんですよ。


そして、もう一つ。もし仮にインターネットが普及したこの時代に、私自身が読書感想文に困っている子供だったらどういう行動をするか?
間違いなく検索してますね。とりあえず検索する。どの本の感想を書くかというところからネットで調べます。そして、うまいことパクれるところがないか、必死になって探しますね。


それが良いこととは思えない。しかし、自分がその立場になったら同じ行動をする以上、その行動を非難することはできないし、そもそも非難するだけならそれを表明することにはあまり意味はないです。
ところが、検索してみると単なる非難を表明する記事の多いこと!。意味無いと思うんですよ。非難するならせめて対案を出せと。自分が子供だったとしてもそう思うよ。きっと。


そこでちょっと考えた。
子供たちの「目的」はなんなのかと?
子供たちの「目的」は、読書感想文をパクることではないんですよ。読書感想文を片づけること。パクるかどうかは関係なく、目の前にある読書感想文というやっかいな代物を亡き者にすればそれでいい。自分が子供の頃にもそう思っていました。
それを踏まえて至ったのは、パクれる読書感想文を書くのではなく、読書感想文を自分が書くとしたらどういう書き方をするか、ということを記事にすれば需要はあるはずだ、という仮説です。


私はそもそも読書感想文が得意な子供ではなかったのですよ。苦手だった。だから、読書感想文が書けずに困っている人の気持ちは得意な人よりは少しだけわかると自負しています。そして、得意な人が陥りがちな罠にははまる必要が無い記事が書けるのではないかと思っています。得意な人が陥りがちな罠、それは、良い評価を得るにはどういう読書感想文を書けばいいのかということを考えてしまうことです。
苦手な人にとって評価なんて二の次です。とにかく片づければいい、それだけです。そう割り切って考えると、読書感想文の元ネタが世間的にどういう評価をされているのかなどという情報は不要になります。それだけでずいぶん負担が軽くなりますよね。


そんなことを考えながら2006年の冬から本格的に読書感想文コンテンツに取り組みました。




しかし……


やってみるとものすごく難しい。やっぱり読書感想文は苦手です。子供の頃の苦行をもう一度経験しているみたいでとてもいやだった。そして、子供の頃の自分にとって役に立ちそうな記事が全然書けません。苦労しているのに全く見返りがない、という状態でした。あらすじだけの読書感想文という笑い話がありますが、私はそのあらすじを書くことが苦手なので、それすらできません。それを試みた感想文もありますけれどかなり苦労しました。
読書感想文を書けないくせに読書感想文サイトを作る。その無茶な状況を正当化するために屁理屈をこねることができるのが大人のずるさでして……。
ざまぁみろと。思うことにした(笑)。楽して読書感想文をパクろうとするからこんな役に立たないサイトに来ちまうんだよ!と。そして、まぁ、一部の子供には魅力的な別分野の記事もちらほらあるわけじゃないですか。すっげー煮詰まっているはずなのにうっかり漫画の感想につかまっちゃう子もいたりしてね。へっへー、と思うことによって、思うに任せない自分の能力不足を忘れることにしました。楽しようとすると罠にはまるよ、と。




さて、それはともかくとして、読書感想文をここに書いていてもう一つ気づいたことがあります。感想を書いた中には、読書感想文の元ネタとしてメジャーな作品もたくさんあります。その中には、他ならぬ私自身が子供の頃に元ネタとした作品も含まれています。


ところが、全く内容を覚えていないんです。
ショックでしたね。読んだはずなのに全く覚えてない。当然どういう感想を書いたかも覚えていない。


そこで思ったのは、そもそも読書感想文を子供の頃に書く意味ってあるのだろうか?ということです。この日記に書き始めた当初は「文学作品を読むきっかけにするという意味がある」と思っていたのですが、他ならぬ自分がその内容を全く覚えていないと言うことに気づくと、それは決して意味にならないのではないかということに気づいたんです。
例を挙げると、この年になって志賀直哉の短編を読み返し、初めてそのすごさを知ったのですが、子供の頃に読んでそれがわかるとはとても思えません。そして実際その作品のことをこれっぽっちも覚えていなかったんです。なんせ、「そのこと」に気づいたとき、今の私が「これに気づいた俺すげぇwwww」と思ったくらいですから。
とてもじゃないけど多くの子供がそのすごさを理解できるとは思えません。「志賀直哉小説の神様と言われ……」という言葉の中身を理解できるとは思えない。そもそも私が最近把握したと思っているそれが世間一般での正解かどうかもわからないですしね。もし仮に子供の頃に「そのこと」を念頭に置いて読むように、と指導されていても、たぶん私には理解できなかったはずです。それのなにがどうすごいのかは、その後読んだ数々の小説と比較しないとわからないんですよね。少なくとも私の能力ではそうしないと理解できませんでした。しかも、くどいですが、その理解が正しいか否かはわかっていなかったりします。


しかし、よく考えるとそれをすんなりと受け入れることができる才能を持つ子供もきっといるんですね。認めたくは無いですが……。
と考えると、やはり子供が読書感想文を書くことには意味がありますね。
全員に平たく課題を与えることによって、何千人何万人に一人いるかどうかの才能を持った子供を見いだすことができる、という意味です。


そう考えると、読書感想文を評価する人の役割はとても重大です。決して自分と同じ感想を高く評価するのではなく、むしろ、自分では決して思い付かないような感想を平然と表現しているような感想を高く評価しなければいけないはず。そもそも、そういう子供が評価対象の中にいるかどうかすらわからない中でそれをしなければいけないんです。とても難しいし厳しい……。








と、まぁ、今年もご託を書いてみたんですがね、大勢が読みに来るっていうことと、そこの内容が充実している事ってのは必ずしもリンクしていないってのはよくわかっているんですよ。たまたま検索で引っかかりやすいから大勢来るだけなんですね。読まれるのが恥ずかしい記事が上位に入っていたりすると赤面してしまいます。極めて稀に「役に立った」という言葉をいただくこともありますが、そう言う人は、よほどこの日記の記事と波長が合ったか、あるいはそもそも自分で書いた方が早いような能力を持った人なんでしょうね。
上述した志賀直哉の例なんかは、かなりマイナーな作品の感想文で書いた話なんで、それを読む人はとても少ないですし、メジャーで多くの人が読みに来る感想文の中には、子供が読みに来ることを意識して書き始める前に書いた物もあるのではなはだ不親切な物が多いです。そして、そもそも名前が知れているから読んだ物の、どうしても好きになれず感想を書くことを放棄したような感想文もたくさんあります。


そういうことを考え始めると、私がやっていることには何も意味がないなと憂鬱な気分になれるのですが、そもそもは趣味の日記だと考えればまぁいいのかなと。日記を書き続けるモチベーションの一つとして読書感想文というコンテンツがある、私にとってはそれだけのことと考えて書き続けようかと思います。そして、もしもそれを役に立てる事ができる人が読みに来ることがあったら、それは望外の喜びと受け止めることにします。


読書感想文に限らず他の分野の記事もそうですね。他人から評価をされるために書くのではなく、自分が書きたいことを書く。そうしないと、きっと他人から評価されるような物も書けないんでしょうねぇ。