読書感想文 芥川龍之介著『蜜柑』

読んでみました。この小説も子供の頃読まされました。驚いた事にあらすじを覚えていた。読んでみたらあってた。
しかしまぁ、この小説で感想文を書くのは無理だな。無理。




だいたい、あらすじを書くだけじゃ原稿用紙は埋まらないですよね。それがまず厳しい。
小学生だったら、鉄道ネタに食いついて当時の横須賀線を調べてみたりすることもできるかもしれない。問題のトンネルや踏切を特定してみたりね。
小説の記述を信頼すると、横須賀駅から2つ目か3つ目のトンネルなので、下記の地図に含まれているあたりだと思われます。

大きな地図で見る
Wikipediaの田浦駅にもそのような記述があります。
女の子は、なぜより近いと思われる田浦駅から乗らなかったんでしょうかね?田浦を通過する列車(トンネルで窓を開けると煤煙が入り込むという描写から蒸気機関車が牽引していることがわかります)だったんでしょうか?あるいは、大人の事情で見送りは横須賀になったのでしょうか?さらに言うと、当時の横須賀市内の交通事情から、該当箇所からは田浦駅に行くよりも横須賀駅に行く方が簡単だったのでしょうか?

色々な疑問が次から次へとわき上がります。


さて、そこでそもそもの疑問に立ち返ります。




この『蜜柑』という作品は、主人公=作者ということを意識させるように書かれています。いわゆる「私小説」です。あたかも作者が経験したできごとをそのまま、あるいは、若干の脚色を加えて小説という形にして発表した、いや、人によっては小説ではなく随筆と思うかも知れません、そんな作品です。
しかし、この作品は本当に作者が体験したことを下敷きにしているのでしょうか?


読み返してみて、少なくともある1点は小説にするための脚色を施しているのではないかなと私は思いました。


横須賀で乗ってくる娘が、三等切符を握りしめながら二等車(今で言うグリーン車ですね)に乗ってくる。
そこまではいい。
しかし、なぜかその娘は作中の「私」の隣に移動してくる。これはないだろうと。
だって、その前に

珍しく私のほかに一人も乗客はいなかった。

と書かれているんですよ。
だのになぜ娘は「私」の隣に移ってきたんですかね?隣以外に目的を果たせる席が無いのならともかく、なぜにわざわざ「私」に自分の行動を見せつけることができるその席に座ったのか?


説明がつかないです。




この作品はあくまでも小説であり、現実をモデルにはしているけれど、実際にこういう光景をそのまま作者が見たわけではなく再現しようとしてもできないものかもしれません。






作中の「娘」や「私」の行動、心情に的を絞った読書感想文はたくさんあると思うので、あえて隙間的なところをつついてみました。正直、書き始めたときどうなることやらと思ったのですが一応しまりましたね。






これで終わってもいいんですが、私が書く読書感想文ではルール違反なこともちょいと書いてみます。


何十年ぶりかに読み返してみると、あらすじではわからない興味が湧く小説でした。その興味を元に今回の感想文を書きました。
芥川龍之介作品に何の仕掛けもないとは思えなくなった俺がいます(笑)。しかも、この小説、題材としてはむしろ志賀直哉が好みそうなんですよね。なのにそれを芥川龍之介が書いている。何か仕掛けがあるに違いないとwwww
で、見つけたのが感想文に書いた所。


まぁ、俺の妄想なんですがね、今回指摘した物語的には非常に都合の良い矛盾を読者が見つけるかどうかを試したんじゃないかなぁと思ったんですよ。


もちろん大正時代には列車に誰かが座っていればその隣に座るべしみたいな風習があってもおかしくはないですがね。




なんにしても、この作品で読書感想文を仕立て上げるのは難しいですわ。いくら短くて読みやすくてもお薦めはできないですね。