第四日:存在しなかったはずの物語、雄弁な『神』

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さて、僕は、ハヤテのごとく!という物語の幹は、綾崎ハヤテ君という少年と、三千院ナギちゃんという女の子の成長にあると考えている。
もちろんそれはあくまでも「幹」に過ぎない。僕がこの漫画を、物語としての突出した可能性があると考える理由は幹だけではなく「枝葉」の部分にもあることはまず断っておく。この物語はそれら全てを合わせてはじめて完成するのである。


今日から二日間は、ハヤテのごとく!の枝葉の部分について考えてみる。今日は二つのテーマについて別々に論じてみる。


まず一つは、三日目に予告した「ときメモファンド」の一件についてである。


畑健二郎さんご自身も書いているように、新人作家が週刊少年誌で連載を持てるというのは夢のような話である。それを夢見ている多くのライバルたちに打ち勝たなければその機会は与えられない。もちろん卓越した実力がなければ難しい。そしてちょっとした失敗が命取りである。実力だけでも勝ち取れない、おそらく運や時代も味方する必要があるであろう。


しかし、ハヤテのごとく!という漫画は、前身となった読み切り漫画で、ゲーム会社とのトラブルを起こしていた。ちまたでは武勇伝として通っているようだが、大人的な考え方では、どんなに面白いものを書いてもトラブルを起こすような人はもう漫画家として使えないと言われかねない。替わりに書こうと手ぐすね引いて待っている漫画家はたくさんいるのだから。なぜそんな問題を起こした作者、作品が基本的な設定はそのままに、並み居るライバルを差し置いて週刊連載を勝ち取ることになったのだろうか。


問題を抱えていながら週刊連載を始めることができた要因として下記の四つを考えてみた。

  • 1.実はたいした問題ではない
  • 2.他に書く人がいない
  • 3.シナリオ通りのプロモーション
  • 4.商業的に成功するという判断
  • 5.世に送り出す価値がある作品だという信念



1の可能性もある。謝罪をすることによって連載をすることができたという話の流れだった可能性もある。しかし、誌面を使って謝罪をするということがそんなに軽いことなのだろうか。僕は出版業界には詳しくないのだが、一般的に考えてこれは考えづらいのではないかと思う。一般企業がWebサイトにお詫びを出すのとは重みが違うと思がいかがだろうか。


2の可能性。それは出版社の小学館を馬鹿にしているような気がする。小学館は才能がある漫画家候補を抱えていないということになる。そもそも読み切り掲載から週刊連載までそれなりに時間があった。漫画業界としてどうなのかはわからないのだが、問題を起こした漫画家を切ろうと思えば切れるだけの時間的な余裕はあったのではないだろうか。


3の可能性はさらに低い。ヒットするかどうかもわからないような漫画にプロモーションをかけることがまずないであろう。しかも謝罪が出たなどということは一般読者の僕は知らなかった。プロモーションならば大失敗である。もっと大々的に謝罪をするべきである。さらに、第二十四話(三巻四話)で、別のゲームメーカーの商品名を許可された上で使っている。実はゲーム業界一丸となった一大プロモーションなのだろうか。それは無理がある論理展開であると言わざるを得ない。さらに個人的な情報だがその業界に身を置く友人はこの漫画のことを全く知らなかった。狭い業界とのことなので、なんらかの計画があれば題名くらいは漏れてくるはずである。


僕が考えている理由、それは4か5だ。それぞれの可能性は同程度と持っている。
編集者、出版社がハヤテのごとく!という漫画の商業的な成功の可能性、または物語の資質を見抜いている可能性が高いと思うのだ。今はまだ、編集、出版サイドがこの漫画を特別扱いしている様子はない。しかし、僕が言う二年後には、おそらく大量のプロモーションをかけるようになっているのではないかと推測している。一度問題を起こした人間をもう一度使う。その人の仕事が社外の限定したお客様だけの目にしか止まらない一般企業であっても冒険である。ましてや、毎週数十万、数百万という部数を出版する週刊漫画誌の編集、出版サイドにとっては大きなギャンブルである。しかし、そのギャンブルに賭ける価値があると、この漫画は「化ける」かもしれないとプロたちが判断したのではないかと推測している。


この一件の時、畑健二郎さんはもしかすると漫画家生命を絶たれたのではないかと危惧したかもしれない。落ち込んだりもしたのではないか。でもそれを乗り越えてこの漫画は僕たちの前に姿を現した。


この物語は、本来存在しなかったはずの物語である。「大人」の判断では発表する場は用意されなかったはずなのである。しかし、今こうして僕たちは読んでいる。このことが実は一番驚くべき奇跡と言ってもよいような事なのかもしれない。




次に、作者の畑健二郎さんとハヤテのごとく!の作中人物との関連について考察する。


この漫画の中には作者が作中人物に投影されている部分があることに気づく。一つはナギちゃんへの「創作者としての思い」の投影である。幼い頃、理解のない読者(咲夜ちゃん)に馬鹿にされ、罵倒されて自分が書いた漫画を捨てるのだが、理解ある読者(伊澄ちゃん)に出会い、続きを読みたいとせがまれると「結婚してください」と言ってしまう女の子。
そんな彼女には作者自身の思いも投影されているのではないかと感じた。そして彼は伊澄ちゃんのような自分の作品世界を理解してくれる読者を夢想しているのかもしれない。
また、これは全編に通して言えるが、パロディを通じて、自分の好きな漫画、アニメの魅力を伝えようとしているようにも思える。実際作中で元ネタとして使われているいくつかの作品に僕自身興味を持ち始めている。パロディは作品愛の一つの形だ。彼は自分の好きな作品を読者にも作中で紹介し、読んでもらいたいと願っているのではないか。


畑健二郎さんについて言及する場合にバックステージの存在を無視することはできない。畑さんは週刊連載という我々の想像を絶する忙しさの中で、毎週決して少なくはない分量の文章を書いている。そしてその文章はハヤテのごとく!という漫画を読むに当たっての道しるべとなっている。
畑さんは、僕が日記で2005/8/30に書いたオープンソースのソフトウエアを開発しているプログラマと同じような思いを持っているのではないかと想像している。
自分の構築した世界を一人でも多くの人に見てもらいたい。知ってもらいたい。理解してもらいたい。そんな思いであの文章が綴られているのではないかと感じている。


物語にとっては作者が「神」である。唯一の創造主である。その「神」が作品について毎週雄弁に語ってくれているのである。その言葉のなかにはあえて読者をミスリードしようとしている罠もあるかもしれない。しかし、それは今や、この漫画の魅力の一つとなっている。そしてそれを読むだけで僕たちは幸せになれるのである。