神の不在

そもそも、僕がこの作品についていろいろと書こうと思った理由、それは、この作品の特殊性はいったいどこにあるかという疑問を解き明かしたいというところにある。
それがようやくわかったような気がしている。


結論の前に過去に書いた話に戻る。2005/11/24に書いた話だ。その中で僕は

しかし、この作品はゲームではない。あくまでも漫画という表現手法を使っている物語である。

と書いた。当たり前のことである。ところがこの当たり前の前提を無視して考えることによって、この作品にはまってしまうメカニズムが見えてくるのである。


この作品には畑健二郎さんいうところの「トゥルーエンド」が用意されている。そして、全ての設定、全てのイベントはそこに向かうためにデザインされている。ところが、昨日書いたように、その用意された設定はこの作品の場合動的に変わってしまう。逆に言うと、当初用意した設定から変化が生まれない限り「トゥルーエンド」にはたどり着けない構成になっている。わかりやすい例がヒロイン三千院凪の年齢である。彼女が主人公綾崎ハヤテから女性として意識される人間にならない限りこの作品はきれいに終わることができない。
そこから一つの可能性に思い至った。




本題に入る前に、ゲームという物について考えてみよう。


僕が思い浮かべるゲーム、それは残念ながら最近疎遠になっている広い意味でのコンピュータを使ったゲームではなく複数の人間によって争われるゲームだ。一番なじみ深いのは麻雀である。
よく、「これから徹夜だ」というと「皆さんがんばってくださいね」と言われることがあるのだが、それは無理だ。あのゲームはゼロサムゲームなので、誰かが勝てば誰かが負ける。みんながみんな満足して朝を迎えられる様なゲームではない。あのときキャバクラの客引きのにいちゃんについてった方が有意義な時間を過ごせたのではないかというむなしい思いで家路につくことが往々にしてある。
話を戻そう。
麻雀というゲームのおもしろさはどこにあるのか。それは四人の人間がそれぞれの心理状態である確率論とそれを超えた勘に基づいて戦う物だ。たとえば二人同時にポンをするようなことがあったらその時点で興味を失ってしまう。麻雀というゲームでは表に見えていない稗が多数ある。それを推理しながらルールに従って勝利を目指す。そこがおもしろい。
では、将棋や囲碁、チェス、オセロはどうか。それらのゲームでは戦いの場にいる人には状況が一目でわかるようになっている。イコールコンディションである。しかし、駒の動き、石の置き場所の自由度が高い。さらに勝負がつくまでに時間がかかる。だからゲームとして成り立っている。たとえば三マスで戦う○×ゲーム。これはちっともおもしろくない。なぜか。必勝法がはっきりしているからである。そしてそれをしらなくても何回かやれば同じ局面に出会ってしまう。プレーヤーに与えられた自由度が低いのだ。マスを石の数を増やした五目並べの場合はどうか。こちらも自由度は低いが明らかに有利な先番にハンデを持たせている。それによってゲームのおもしろさを醸し出している。


自由度の高さ、言い換えればプレーヤーに与えられた選択肢の多さによっては、完全に手の内をさらしてしまっても、全く同じ局面にはまず出会わないようなゲームもあるのだ。
それを突き詰めていくと、もしかすると一人で遊んでも十分楽しめるようなゲームを作ることができるかもしれない。


話を戻す。


2005/11/24に僕は、この物語は作者、すなわち「神」によって全てコントロールされているという趣旨のことを書いた。それが誤りだとしたらどうなってしまうのだろう。


ハヤテのごとく!という物語は、動的に設定が変わるという構成と、その変更自由度の高さゆえに、作者ですらコントロールできないのではないか。
畑健二郎さんはゲームとして楽しみながら、またある時には苦しみながらこの作品を描いているのではないか。




ハヤテのごとく!という物語において、作者は「神」ではない。




ラストシーンのイメージを明確に思い描いていて、こともあろうにそれを読者に公開している。さらに、そこまで至るために必要な詳細な設定、綿密な計画がある。しかし、それにも関わらず、あまりにも複雑すぎて作者自身でさえもコントロール不能な物語、そして、それを、ゲームとして作者も読者も楽しむ物語、それがハヤテのごとく!という作品なのではないか。


この作品の自由度は非常に高いが、ルールも厳しい。というよりも作者自身が厳しいルールを作り、物語の構築をより難しくして楽しんでいるようにさえ思える。バトル漫画にしてはいけない、サクセスストーリーにしてはいけない、ラブコメの温度は適度に保たなければいけない、それらは全て作者自身が自分に課しているルールである。
おそらく、この文章を読んで、「なんだ、この漫画は作者の自己満足なのか」と思った人もいるかもしれない。しかし、それは違う。外的な要因で発生しているルールがあるからだ。その中でもっとも厳しい物が「週刊少年漫画雑誌に連載し続けなければいけない」というルールだ。ある程度読者の人気を保っていないと、この作品の発表の場所が奪われてしまう。
その外的要因からくる大前提の上でそれをクリアすることがより難しくなるルールを自分自身に課している。そういう作品なのだ。


僕はこの作品を読んで感じた「怖さ」。それは、読者はもちろん、作者自身も展開の予測がつかない作品であり、あらかじめ用意された結末に到達できるかは物語終盤にならなければわからないにも関わらず、どう転んでもせつない物語になるというところに原因があると思う。
ハヤテのごとく!という作品における「神の不在」。それは僕の妄想である可能性が高いことは認識している。しかし僕はそう感じている。だからこの作品にはまったのだ。


もし仮に、この作品が「神の不在」という状況で生み出されているという僕の考えが大筋で当たっていたとしよう。その場合でも「意図せずしてそうなった」可能性の方が高いと思う。週刊少年誌への連載というチャンスを物にするために、必死で考えた物語があまりにも複雑すぎてコントロールを失った、畑健二郎さんには失礼な話ではあるがそう考えるのが自然である。
でも、万が一、そもそもそれを意図してこの作品を作り出していたとしたら・・・それは恐ろしいことだ。自分がコントロールできない物を意図的に生み出す。しかも、その結果多くの人に受け入れられる物語ができあがる。もしそうだとしたら、それはまごうことなき「天才」の仕事だ。


最後にこの物語の行き着く先に改めて思いをはせてみる。
2005/11/27に、ハヤテのごとく!という作品は「時の流れ」という物を描こうとしていると書いた。しかし、その後僕がたどり着いた結論から考えると、そのことにはあまり意味がないことになる。例を挙げると、ある自動車が気に入って、そのすばらしさを人に伝えようとするときに「この自動車はタイヤが四本付いていて5人の人が乗って移動できるからすばらしい」と力説するような物だ。たしかにそれは本質的なところであるが、決してある種類の自動車のすばらしさを表現する言葉ではない。
物語における「時の流れ」というのはそういう本質的なところである。二輪車があり、バスがあり、トラックがあるように、時の流れを描かない物語も存在するが、時の流れを描く物語が多数あり、それが多くの人から支持を受けている以上は、この作品でそれが顕著に描かれ、そこが感動の源になるということはあっても、固有の美点として挙げることは間違いだったと今は思っている。
しかし、2006/1/14に書いた、この物語終了のための必要十分条件が「日付」であるという予想は未だに捨てていない。そして、それが作中での2007/12/31ではないかという考えも変わっていない。


さて、2005/11/22に書いたこの物語の世界観、「ナギの世界」「歩の世界」、そしてその後顕在化する気配を見せている「ヒナギクの世界」それらの世界はこの物語が完結するまでそれぞれ影響を与えながらも、他の世界を取り込んだり、他の世界に取り込まれたりすることなく存続していくと予想している。


そして、この物語が完結したときに新しい世界が生まれる。






「ハヤテの世界」




「空っぽ」だった綾崎颯という少年が、三千院凪という少女に出会ったことによって始まった物語。決して短くは無いが、永遠と呼ぶことはできない年月を過ごした時、「空っぽ」だった彼は自分の世界を持てるまでに成長している。そして「ナギの世界」、「歩の世界」、「ヒナギクの世界」それぞれの世界でも少年、少女たちは成長していく。その成長を見ながら主人公も変わっていく。その過程はわからない。そして、その行く末も作者ですらわからない。でも、この物語がどういう結末で終わるにしても、この作品で描かれた世界、その全てが「ハヤテの世界」になる。「ハヤテの世界」の構築がこの物語の目的というわけではない。物語が淡々と進むことによって結果的に生み出されるのが「ハヤテの世界」である。


どのような形であるにせよ、最終回では別れが描かれることになるという予感がある。主人公とヒロインの別れ、それがすぐに思いつくエンディングである。もしかすると「ハヤテの世界」と三つの世界のどれか、あるいは全てとの別れが描かれるかもしれない。あるいは「ハヤテの世界」が三つの世界とのつながりを持ちつつ、少年綾崎颯は自分の世界を離れた誰か、もしかするとそれがヒロイン三千院凪かもしれないしそのライバル西沢歩かもしれない、と手を取り合って自分の世界に踏み出していく、そんな別れが描かれるのかもしれない。どのような結末になってもそれが「ハヤテの世界」である。まだこのようなことを言うのは早いとは思うが、僕は全てを受け入れる覚悟はできている。


ハヤテのごとく!という作品は、一種の天地創造の神話とも呼べる物語である。僕の予想がもし大筋で当たっていれば、この作品は少なくともあと十年は描かれ続けることになる。あらかじめ設定した世界の中で物語を組み立てていくのではなく、用意した世界に読者、ややもすると作者ですら気づかないような微妙な変化が少しずつ起こり、結果として大きな変化が与えられたことになる。さらにそれと同時進行で、少しずつ、まるでレンガを毎回一つずつ積み重ねるように少しずつ構築されているが、ある約束された日に見上げると大聖堂のような新しい世界が生み出されている。そういう物語である。
笑いがあり、萌えがあり、戦いがあり、そしてせつなさがある。読者は、その淡々と進む物語を、ただ消費しているだけだと思っているかもしれない。でも知らず知らずのうちにこの作品に取り込まれる。そして、神の視点を持ちながら神ではない作者、畑健二郎さんとともに、かつて無い位多くの人々が新しい世界の創造を見守ることになるはずだ。




ハヤテのごとく!という生涯に一つ出会えるかどうかの作品を読むことができたこと。そして、その思いを綴った文章を人に読んでもらえる環境を持つ時代に生きていること。いろいろな偶然のおかげで今日のこの結論にたどり着くことができた。もし公開の場に何も書かずただ単に読んでいるだけだったら、未だに悶々として物語の続きを待つだけの読者であったはずだ。
この作品を支える物語要素についてはまだ書きたいことがたくさんある。しかし、一応今回でこういう形の文章は一区切りとしたい。次の節目、おそらく十巻発売のタイミングあたりでアイディアがあれば再び長文を書いてみようと思う。







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