最終回 時間の共有

別にどの本でも良いのだが、まず、最近(でもないけれど)読んだ新書の中で語られている2ちゃんねる像にを引用してみたい。
僕が2006/02/19に感想を書いている、「感動」禁止!―「涙」を消費する人びと ベスト新書から引用してみる。

「禿同」(激しく同意)しないものは受け入れられない雰囲気なのである。

この感覚は僕は共有できない。少なくとも僕が見に行くところはそんなところはない。もしそんなところばかりだったら僕は2ちゃんねるを見に行くことはない。
それが2ちゃんねるの多様性だ。
前述の本の著者は、引用したような感想を2ちゃんねるに持っている。しかし、同じ2ちゃんねるという巨大掲示板を見ている僕はそういう場所ではないと感じている。
それは、同じ書き込みを見たときのとらえ方の違いという面もあるとは思うが、おそらくは、どの板のどのスレに注目して2ちゃんねるというものをとらえるかというところに起因すると思うのだ。
おそらく著者がおっしゃるような進行をする板、スレもあるに違いないのだ。しかし、僕はそういうところには行かない。そして著者は僕が行くところにはいかない。ただ単にそれだけのことである。
2ちゃんねる住民の総意などというのは幻想でしか過ぎない。しいていうならば2ちゃんねるの存続を望んでいることは2ちゃんねる住民の総意?いや、それも違う。この掲示板がつぶれてくれることを願いながら毎日書き込んでいる人もいるはずである。世の中には自分が思っている以上にいろいろな人がいるからだ。


僕が2ちゃんねるを見て面白いと思うところ、それは自分からは決して出てこない発想が書かれているところである。友人と飲み屋でだべっている状況に似ている。違うのは相手が気心しれていない相手というところだ。そういうことを思いながら2ちゃんねるを見ている以上、「禿同」進行のスレなんかは見ても意味を感じない。
まっ、そんな偉そうなことを言っているが、本当に一番好きなのはネタスレなわけだが・・・


さて、結論に向けて話題を変える。
2ちゃんねるという掲示板は、上述のように、多種多様な人が、多種多様な嗜好、思惑で書き込み、閲覧をしているところである。しかしこれだけ巨大になる、これだけ多くの人が毎日アクセスするにはそれなりの共通な理由があるはずだ、それはなんなのか、ということを、無謀にも書いてみよう。




2ちゃんねるの魅力は「臨場感」である。


ただ、それだけだ。
遠く離れた名前も顔も知らない人と同じ話題、そして同じ時間を共有できる、そこに魅力を感じる。
「祭り」という言葉、「キター」という言葉。それが示す物はなにか。多くの人と一緒の時間を共有しているという感覚である。とくに「キター」にはそれを強く感じる。
だから、2ちゃんねる創世時から「記念カキコ」という物が存在していたのだ。2ちゃんねる以前の匿名掲示板にもあったのかもしれないが、僕がこれをみたのは2ちゃんねるが初めてである。そして、「記念カキコ」をする人の心理はなんとなく僕にも想像できたのだ。


臨場感を求めている人がアクセスしているからこそ、実況板はああいう状況になり、地震が起こった直後はああいう状況になる。そして交通情報板はオフィシャルより早い情報がアップされるわけである。今という時間をリアルでは自分のそばにいない誰かと共有したい。そういう意識が2ちゃんねるを支えているのではないか。




最後に。
書いてみて思ったのだが、やっぱりどうやっても2ちゃんねるという物について一般論は書けない。結局自分の見ている板、スレでの体験を元にした極私的な話しか書けない。
匿名であり公開されているにもかかわらず、ある意味、今こういう文章をアップロードしている日記よりも私的な場、本音を吐露できる場、それが僕にとっての2ちゃんねるである。