さよなら絶望先生 1〜5巻 虚構への現実の侵略

さよなら絶望先生(5) (講談社コミックス)

さよなら絶望先生(5) (講談社コミックス)

この作品の感想文を書くことはできることならば避けて通りたかった。感想文を書くのが非常に難しい作品である。今日は無理を承知でいつものようなスタイルで読書感想文を書くことを試みてみる。


さよなら絶望先生、あるいは久米田康治さんという漫画家による作品を特徴付ける要素は二つある。一つは毒だ。
毒は本当に強い。前作の「かってに改蔵」は毎週買っていた週刊少年サンデーに連載されていたので読んではいたのだが、正直私には毒が強すぎてあまり好きにはなれなかった。今にして思うと恐ろしい作品である。漫画、小説などで描かれる「毒」にはかなりの免疫があることと自分では思っているのだがそれでも許容できなかったのだ。思い返してみると、私にとって許容できないほどの毒を持つ作品というのは「かってに改蔵」以外には読んだことがないかもしれない。
さよなら絶望先生」を離れてしまうが、まずは「かってに改蔵」の何に私が耐えられなかったのかということを書いておこう。
おそらく複合的な要素だとは思う。そのうち一番大きかったのは「いじめ」の構造があからさまに描かれて、いじめられ役が固定されていた体と思う。思い返すといじめというのとはちょっと違う。他の奇矯な登場人物、主に名取羽美の異常行動の被害者となるのがほぼ坪内地丹に固定されているところが耐えられなかった様に思われる。
作品が持つ「毒」にはかなり寛容であるはずの私の許容量さえも上回る「毒」だったのだ。
さよなら絶望先生」の場合はどうか。この先連載が進むにつれ状況が変わる可能性がある。しかし、とりあえず現状について考えてみると「羽美役」と「地丹役」が固定されていないように感じている。もともと設定が魔法先生ネギま!のパロディであり、それぞれ違う属性を持つ少年少女が複数登場する。それぞれが「かってに改蔵」の「羽美」の部分と「地丹」の部分を微妙に受け継いでいる。だから「毒」の絶対量は変わっていないのに、私にとっては薄まっているように見えているのではないか、そう感じている。
さらに、主人公「糸色望」先生の存在が大きい。キャラクター的にはいじめられ役なのだが、自らものごとをネガティブに捉えるが故に、逆に悲壮感がない。この先臼井影郎が地丹役に固定される可能性も否定できないが、そうせずに済むのに十分な登場人物数であると思っている。


もう一つの要素はパロディなど、現実社会を揶揄、あるいは風刺したネタである。とにかくものすごい分量だ。元ネタ解析サイトは大変である。ほぼ全てのページに詰め込まれているし守備範囲も広い。
この漫画を読むと、「あるある」と思ったり「自分もそうじゃん…」と身につまされたりすることが非常に多い。この漫画自体は虚構なのに、現実がその虚構を侵略してあたかも現実社会を描いているように見えてしまう。


さて、それを踏まえて「毒」の話に戻ると一つ気づいたことがある。それは、「かってに改蔵」では多用されているように感じていた、漫画やアニメ、ゲームという私があまり知らない分野をネタにすることが「さよなら絶望先生」では相対的に減っているような気がするのだ。いわゆる社会風刺が増量されているように見える。
もしかすると私が「かってに改蔵」は耐えられなかったのに「さよなら絶望先生」は耐えられることの理由の一つは、「さよなら絶望先生」を読むと現実とのリンク感をより多く得ることができて、それも毒が相対的に薄まったように思える効果があるのではないかと思い至った。






無理ですねぇ。やっぱり。この漫画は読んでネタを楽しむのが一番かなぁ。一話完結だからたまたま手に取ったマガジンを読んでもわかるってのが一番のポイントだよなぁ。設定わからなくても面白いから。


今日はこんなところで。
カテゴリ 読書感想文
tanabeebanatのAmazonストア