筒井康隆がライトノベルを書く必然性

おれが筒井康隆作品と出会ってしまったのは、大学受験を間近に控えて煮詰まっていた時期でした。記憶をたどると、栗本薫経由だったはず。栗本氏の著作で筒井康隆を特別扱いしているような記述があって、今よりも純真だった俺は「なるほどそれなら読んでみようか」と素直に受け止めてしまった。ちょうど通っていた高校の図書館に全集がそろっていたのでうっかり読み始めてしまった。
その結果、こうなってしまいました。


この記事は筒井康隆作品とはあまり馴染みが無くて、今回ライトノベルを書くと話題になっているからちょっと読んでみようかなと思っている人を対象としてみます。


筒井さんが、えーっと、筒井康隆のファンは筒井先生とか言うことはまず言わないって話をどっかに書いてありましたがその通りです。筒井さんと呼ぶのが普通です。おれの場合は通っていた高校が教師をさん付けで呼ぶのがデフォだったので気にならないのですが気になる人もいるでしょうね。そういう習慣がある人たちがいると言うことでご理解いただければと思います。
話が進みません。
筒井さんが、ライトノベルを書くという話をメディア経由で耳にした瞬間「やっぱり…」と思ったんですよ。この人は絶対にやる。むしろ、健在である間にやろうとしなかったらそっちの方が事件だ、と。
全集を読めばわかるんですが、筒井作品はカオスです。根っこにはSFというのがありますが、そのSFというジャンルの中でも、子供向けの毒が極めて少ない異色作(『時をかける少女』を思い浮かべていただければ…)もあるし、毒というかなんというかもう非常にコメントしづらいし感想も書きづらい作品も多々あります。っていうかそういうのばっかり。
しかし、筒井さんはSFというジャンルというか枠組みに収まる作品だけを書いているわけではありません。たとえば最近ドラマになった『富豪刑事』。あれはあんな感じで推理小説とかミステリーとは呼びづらいと思いますが、そうではなく、『ロートレック荘事件』のようながちがちの推理物も書いています。それだけではありません。初期には漫画も描いているし、おそらく今現在だと一番馴染みがある分野だと思われますが、いわゆる純文学作品も書いています。


筒井さんは境界(ジャンル)をぶち破ります。というニュアンスとは若干違いますね。筒井さんには境界(ジャンル)がありません。便宜上自分作品をカテゴライズして語ることはあるでしょうが、根底ではそういう分類自体を拒否しているように思えてなりません。


そして、もう一つ。筒井さんの著作から得た知識だと思うので、突っ込まれると困ってしまうのですが、どうやらかつてSF小説家は、作家というコミュニティの中で下に見られていたらしいです。もしかすると、今のライトノベル作家を取り巻く環境に似ているのかも知れないなと思えるのです。


筒井さんが「ライトノベル」あるいは「ラノベ」というジャンルで自身が作品を発表することによって、そのジャンルが今抱えている、もしかするとそれ自身が作ってしまっているのかも知れない壁を打ち破ろうという意図があるのではないか?おれはそう感じています。




これから『ビアンカ・オーバースタディ』の感想を書きます。ほとんど読んでいない「ライトノベル」というジャンルの作品の感想として書くか、筒井康隆作品の感想として書くか、たまたま手に取った1編の小説の感想として書くか、まだ決めていません。
でも、もしかするとそんな選択肢は無意味なのかも知れません。おれが読んで感じたことは、その作品のジャンルや作家に依存しているわけではなく、その作品それ自体にのみ依存しているのかも知れないから……。