空虚になる現実、実態を持つ仮想

起きると日経新聞読んでいます。他の新聞とはちょいと違う一面を読み、他の新聞とはちょいと違う春秋というコラム(朝日で言うところの天声人語)を読み、私の履歴書を流し読みし、中身をざっと読み……。
今朝は、吹きました。
春秋が「初音ミク」から始まっていた(w。しかもミクとコミケを絡めて北京オリンピックの開会式と比べていた。面白かったです。
そして、ひらめいたんですよ。


俺が、ニコニコ動画2ちゃんねるに抱いた「幻想」はそういうことなんじゃないかと。それをきっかけに擬似イベントによる呪縛からの脱出ができるんじゃないかと。そう思ったんですね。



「擬似イベント」という言葉を何気なくここに書くことがありますが、ご存じない方もいらっしゃるかもしれません。大丈夫です。私にもよくわかっていません。私がこの言葉を知っているのは筒井康隆作品を読んでいるからです。筒井さんが作った言葉なのかどうかは知りませんが少なくとも私にとってのオリジナルは筒井さんが作品の中で示した概念です。
言葉にしてみると、ショーアップされて、みんながみんな自分の役回りを承知した上でイベントの出演者、参加者、傍観者を演じているようなイベントかな?イベントのためのイベントと言ってもいいのかな?伝わるかなぁ。なんというか、本質的なところでは何の意味もないイベントというイメージです。
最近話題になっている北京オリンピックの開会式なんかはわかりやすい例でしょうね。イベントのためのイベント。だから、あれでいろいろ問題があって、それに目くじら立てている人を見ると「ああ、あんたらはそういうお役目なのね」と言いたくなる。そしてそう思っている自分自身もそういうお役目を仰せつかったんだなと勝手に思うことにしています。


話はコミケに飛びます。
去年の冬、初めて行きました。今のところ最初で最後。夏は無理だと思った。体力的に無理(笑)。でね、面白いなぁと思ったんですよ。あれだけ大規模なイベントなのに、来る人の目的がまちまち。売りに来た人もいれば買いに来る人もいるし人に会いに来た人もいる。今にして思うけれど、コミケは擬似イベントではなくイベントなんですよね。盛り上げるために用意されている場ではなくそこに来た人が勝手に思い思いの理由で盛り上がる場になっている。もちろん盛り上がれない人だっているけれど……。


そこで冒頭上げた日経のコラム。初音ミクという架空のキャラクターがコミケという場で実態を持つ。かたや、オリンピック開会式という現実に起こった出来事がすべて都合よく作られたニセモノに見えてしまう。
ようやく、そのことに多くの人が気づきはじめたと言うことか……。


そのコラムでは初音ミクコミケで実態を持ったことを重視しているというニュアンスを感じましたが私はそうは思っていません。ニコニコ動画で盛り上がった時点で、既にイベントになっていると思いますね。誰かがコントロールしているわけではなく、ほとんどの人が自発的に参加するイベントが始まろうとしている。そして、その場としてネットがある。その中でも大きな規模を誇っているのが2ちゃんねるニコニコ動画であると…。メディアが仕掛けてコントロールするイベントからはうさんくささを感じる人でも、そっちにはなんとなく本物らしさを感じてしまうんですよね。


前に書きましたが、2ちゃんねるの命は裏情報とか匿名性ではなく同時性だと思っています。本当に同時でなくてもいいんです。あたかも同じ時間を共有しているという感覚が大事。それはニコニコ動画にも言えること。コメントを別画面表示ではなく画面内に表示するだけで不思議なことに同時に同じ映像を見ている感覚になってしまうんですよね。


思った通りぐたぐたになってしまいました。


ネットという場ができて、誰でもあたかも現実のような仮想イベントに参加できるようになりました。見ているだけでいることももちろんできるし、ふと思い立って舞台に立つこともできる。別の舞台を作ることだってできる。誰かが見てくれるかも知れないけれど誰も見てくれないかも知れない。舞台の上が飽きたら観客に戻ればいいだけ。見ているのも飽きたら立ち去ればいいだけ。
もしかすると、私が知らなかっただけでコミケって言う場所は昔からそうだったのかも知れません。


最近ネット上でメディアチックな流れを望んでいる人が多いような印象を持っています。ある発言をしてそれが「世論」を形成することを望んでいるような……。それはそれで有りだと思うし、それだってネットがなければ実現しなかった事だとは思う。でも、本当にネットがメディアに従属するような物ではなく、それ単体で今までとは全く違う役割を持つようになるためにはそのやり方ではうまく行かないのではないかと私は思っています。