読書感想文 高橋弥七郎著『灼眼のシャナ』0 にかこつけて、メタフィクションについてちょっと語ってみる

灼眼のシャナ0 (電撃文庫)

灼眼のシャナ0 (電撃文庫)

古本屋で見つけたので何となく買ってしまいました。そして、先に読んでしまいました。
収録されている話は本当の番外編2本と本編に関係する番外編です。悠二に出会う前のシャナの話は面白かったですねぇ。


それ以外の2本、つまり、本編とは直接関係ない、一種の読者サービス的な話が問題です。読めばわかりますが、メタな視点で書かれています。



によると、

メタフィクションは、それが作り話であることを意図的に読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する。
中略
メタフィクションは読者にフィクションを読んでいるという事実を意識させる。

とあるんですが、私はメタフィクションには別の効果もあるのではないかと思っています。


唐突ですがちと自分語りをしてみようかな。
私は文系で文学部出身です。とは言っても、文学を専攻していたわけではありません。地理を専攻していました。半分理系っぽい勉強をたまにしてました。主に麻雀をしていたような気もしますが……。なので、文学の小難しい話はちゃんと勉強していないです。読み返してみるとここにそれっぽい話を書いていたりするのですが、私の場合は何かを書く度に単に自分が物を知らないと言う恥をさらしているだけなのかも知れないです。だから、今日書くことももしかしたらものすごく恥ずかしいことなのかも知れません。


メタフィクションというのを意識したのは、私が筒井康隆を呼んでいたからですね。筒井さんの作品にはそれを意識した物が多く存在します。
私の印象に残っているのは、新聞連載とパソコン通信を連動させたメタフィクション朝のガスパール』ですね。階層構造が深すぎてわけがわからなくなりました(笑)。作者はもちろん、パソコン通信を通して発言をした人も虚構に取り込んでしまおうという力業をみたような気がします。


メタフィクションが産み出す効果として、上で引用したような「フィクションをフィクションとして強く意識させる」という物も当然あります。しかし、この手法にはそれとは逆に「読者がフィクションの中に取り込まれたかのような錯覚に陥らせる」効果もあるのではないか、最近そう思っているのです。
この感想文のテーマである『灼眼のシャナ 0』においてもそれは感じます。作中でシャナが作者に語りかけます、というか突っ込みます。それを読んだ読者は、シャナが架空の人物だと言うことははっきり認識しているにも関わらず、自分たちがいる現実と同じ階層にシャナが存在しているのではないか、そんな錯覚を抱かせる効果がある、私はそう思っています。


最近読んだ本の中で、その効果を大きく感じたのはこの本です。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱』自体はメタフィクション的な手法は取っていません。この小説は結果的にメタフィクション以上に巧みな階層化の手法を使っています。そして、その階層の狭間に読者が落ちてしまった時、極端に言うと「現実と虚構の区別がつかない」ような不思議な感覚を得ることができます。
文学論としてではなく、娯楽として小説を見た場合、メタフィクションで狙っているのは「読者がフィクションの中に取り込まれたかのような錯覚に陥らせる」効果の方が大きいのではないかな、と考えています。