読書感想文 井伏鱒二著『山椒魚』 ストックホルム症候群

山椒魚 (新潮文庫)

山椒魚 (新潮文庫)



この小説は子供の頃何度も読みました。いや、何度も読まされました。記憶では小学生時代だったと思いますね。
こうやって再読してみると、なるほど読書感想文の課題としては定番になるのも理解できます。
まず、短い。私の記憶が合っていれば小学生の時にこれを読まされたんで、あんまり長いのは読めませんからね。
次に、文章が平易。読みやすい。注釈いらず。これ、大事ですね。
そして、深い。本当に深いかどうかはともかく、深く感じる。作中で描かれているいろいろな物が何かの象徴なのではないかと想像が膨らみます。


でも、この小説の感想文ってどう書いたか全く記憶がないですね。困りました。結局「読まされた」と思って読んだ小説ってあんまり覚えてないんですよ。「よく感想文書いたな俺」と思っちゃったよ。


おそらく、自分の殻に閉じこもった人間が岩屋から出られなくなった山椒魚にたとえられていると考えるのが一番素直なんだろうと思います。おそらくは私が子供の頃もそう解釈するようにと教えられたような……。
でも、今日は最後のこの言葉だけに焦点を絞ってみようと思います。

今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。



書いているうちにだんだんと記憶がよみがえってきました。そういえば、子供の頃の私もこの言葉に引っかかったはずです。もしかすると『山椒魚』という小説はそういう作りになっているのかも知れません。たまたま私がそこに引っかかる性質を持っているだけなのかも知れないですがね。


狭い空間で閉じこめられていると、たとえ対立する間柄であっても一種の共感というか友情に近い感情が芽生える、今の言葉で言うと「ストックホルム症候群」にあたるような事象が発生するということを作中で表現したとも考えられます。

しかし、それでは「今でも」の「でも」の説明が難しい。前からそうだったというところも含めて自己欺瞞であるという解釈はありますが、それはちと苦しいのではないかなと。


この作品には様々な登場人物が出てきますが、一番印象深いのは、この山椒魚と蛙のやりとりです。死を悟った蛙がなぜそんな心境に至ったのか。山椒魚を象徴として捉え、自分を蛙の立場にたとえてみるとどんな心境になり、それと作中で描かれる蛙の心境とはどう違うのか。
それを題材に感想文を書いてみるのも面白いかも知れません。


でも、面倒ですね。やっぱりそこには触れず、2年間外に出ることを怠って表に出られなくなった山椒魚を見てどう思うかというところを書いた方が簡単でしょうねぇ。


ここまでで一度更新をして、ちょっとネットで調べてみます。その結果書きたいことができたら追記します。