「誤解とすれちがい」という基本構造

今日頂いたコメントともかぶりますが、誤解で話が展開してくるってのは高橋留美子作品によく似ていると言えばよく似ています。久米田康治作品だと「誤解」というより「曲解」と言った方がいいのかもしれないですが、とにかく、物事をどう解釈するか、っていうのが人によって違い、また、誰がどういう気持ちになっているのかってのは周りの人たちにはわかりらないってのが物語を動かすトリガーになっていて、畑健二郎さんがその仕掛けを組み込むことに長けているようですね。なるほどなぁ。そう理解した。


この「誤解とすれちがい」っていうのはラブコメと非常に相性が良いと思います。イライラ系のラブコメですけれどね(笑)。でも、『ハヤテのごとく!』がイライラ系かと言われるとちょっと違うな。ラブコメとして読むと誤解があまり大きな役割を占めていないです。
ヒナギクさんがハヤテのことを好きだと言うことをハヤテ自身が認識したとしても実は話は進まないと言う……。ナギがハヤテに告白されたと思いこんでいる話にしたって、そもそも誘拐しようとしていたことがばれたとしても今さら何の影響もないし、ナギの気持ちにハヤテが気づいたとしても物語に与えるインパクトはそれほど大きくは無いんじゃないかなぁと思います。


最近読んだラブコメの中で、「誤解とすれちがい」の使い方が面白い作品があります。
とらドラ!』です。
とらドラ!』では、自分が自分自身の気持ちを「誤解」というかわかっていないが故にイライラ系ラブコメになっています。相手の気持ちもわかっていないけれど、自分自身の気持ちがわかっていないのを見せられる方がよっぽどイライラするんだなぁと思いました。


ハヤテアニメ2期はラブコメに振るみたいですが、普通のラブコメとは一風変わった作風にどういう反応が示されるんでしょうかね?