構造主義とポストモダン。で、結局何が目的なの? 『ハヤテのごとく!』にまつわるお話……

言葉しか知らないレベルで、それもぶっちゃけ筒井康隆さんの書いた物でしか触れていないので理解できてないんですよねぇ。


とにかく、なんとなく疑問に思っていたことは
構造主義ポストモダンもそもそもなんのためにそんな概念を産み出したの?」
ってことです。単なる思考の遊び?それとも何らかの意味があるの?想定している目的地ってあるの?ってことです。


結局筒井康隆になってしまうわけですが……

実際、読者の要請などを受けてストーリーが「途中で変わる」作品というのは
「連載作品」のように製作途上で人目に触れないとありえないので。

っていうのは筒井さんがずいぶん昔に意図的にやりましたからね。ただ、筒井さんがやることなので読者自体も虚構に引きずり込むという意図があったみたいですけれどねぇ。


引用が前後しますが、

構造主義の方は「『物語の構造』をきちんと踏まえてくれ」という感じで、
ポストモダンの方は「外部の影響の反映」を言い表したものではないかと。

雑誌に連載される漫画の場合、後者からは今も昔も逃れることは決してできないのではないかと思います。それは物語の筋立てが変わるとかいう問題だけでなく、物語自体の継続性に影響を与える、平たく言うと外部からの影響を適度に反映しないと打ち切られることがあるという問題が大きいのでは無かろうかと思いますね。その点は前に上げた筒井さんの新聞連載小説とは異なっていますね。


で、ここからが俺の仮説なんですが……。
創作をする人から見たら「構造主義」だろうが「ポストモダン」だろうが関係ないのではないかなと思ったんです。
それらはあくまでも手段でしかない。目的は別のところにあるのでは無かろうかと。
その目的地は、現実と見まがうような架空の世界を自分の作品の中に創り上げることなのではなかろうかと思ったんですよ。『ハヤテのごとく!』を読んでね。


外部(現実)の影響を受けて物語を作ることによって、その作品にリアリティが増してより強固な架空の世界ができあがるという考え方もあるし、ロジカルに、考えに考え抜いて、一点の矛盾もない世界を虚構の中に構築することによってリアルに近いファンタジー世界を創り上げようと思うことだってあるでしょう。
むろんその両方をマージして、さらには自分自身のオリジナルの方法で創り上げようとする創作者だっていらっしゃると思います。




ハヤテのごとく!』の場合はどうなのか?と今とっさに考えてみました。むろん過去に書いたことを思い浮かべながらですが……。


まず一ついえることは、マージされているな、ってことですね。もともとの物語構造はあるけれど、読者の反応など外部要因で予定を変えることもしばしばあるんだろうなぁと。
ただ、ここが大事なんですけれど、もともと容易に外部要因を受け入れられる構造を持っていたってことは言えます。あたかも外部からの要望や現実に起こった出来事が作中世界のリアルであるかのように描くことができる作品だったんですよねぇ。そして、それをやっても物語が破綻しないんですよ。


ハヤテのごとく!』の場合、内包される一つ一つの物語はかなり強固な「構造」を持っていると思います。しかし、それをつなぎ合わせるというもっと「大構造」を持っているがために、外部要因を容易に受け入れられるようになっていて、さらには作者が書きたくなったり読者から読みたいという要望が多かったりした別の「構造」を持つ別の物語を追加することができるんだろうなと思うんですよ。
そして、そういう構造でできた世界って「本物臭い」んですよ。だってそうでしょ?みんながみんな一つの目標に向かうなんていう世界より、人それぞれ別の目標に向かっていて、中には目標が見いだせない人もいて、それでも現実の中で時を過ごしているじゃないですか。違う目標を持った人同士があるタイミングではその目標とは全く関係のない、結果的に目標の達成が遠ざかるような行動をそうとは意識しないでしていたりするじゃないですか。
具体的に言うと今週までの話でヒナギクさんの当座の目標とハヤテの当座の目標は全く違うところにあったじゃないですか。でもその目標を達成するために、お互いの目標は知らないままに結果的に協力しちゃいましたよね。そういうところが「本物臭い」フィクションと感じるんですよねぇ。




いずれにしろ、俺が一番すごいと思うのは、構造だポストモダンだそれがどうしたキャラ萌えでいいじゃんみたいな議論ができる作品であるのにもかかわらず、『ハヤテのごとく!』は、誰が読んでも面白い、って書こうと思いましたが面白いか面白くないかは個人差ありますね、言い換えましょう、誰が読んでもとりあえずは「わかる」作品であると言うところです。
しかも商業的に成功しているという事実!もう事実になったでしょう。ここまでくれば。まだ先は長いですが(笑)。


学生時代に筒井さんの作品を読みましたが、当時の後期になるとかなり難しくてね、恥ずかしながら全く歯が立たなかった小説が何本もあります。なにかをやろうとしているってのはわかるんですが難しすぎて考えることを放棄してしまった。今読んでも同じ対応になってしまうような気がします。作品としては優れていると思うのですが、それを理解できる人は極めて少数であり商業的な大成功は見込めないです。
畑健二郎さんにはおそらくそんな特異な構造を持つ物語を作り出したっていう意識はないのではなかろうかと思っています。自分が書きたい物を、誰にでもわかりやすく、かつ商業的にある程度の結果が出るように描きたい!という意識が産み出した奇跡なのでは無かろうかと私は思っているんですよねぇ。


この言葉、最近意識的にあまり使わないようにしていたのですが使っちゃいましょう。私が言うところの「スーパーハイブリッド構造」は、作者の才能とその方向性、読者の嗜好、出版社の都合などのいくつもの偶然が重なって産み出された構造なのではないでしょうかねぇ。