インターネットによってもたらされた言論のおニャン子クラブ化

この記事を読んで思ったことです。なんでこの記事から表題のような話になるのかという思考の過程を書くとかなりめんどうなことになりそうなので割愛します。
また、表題の件ではなく全く違うことにも思いを巡らせたのですがそれはまた別の話。今日書くかも知れないしいずれ書くかも知れないし書かないかも知れません。


ふと思ったのですが、このサイトを読んでいる人の中には「おニャン子クラブ」を知らない人もいるのかもしれません。むしろそっちが多数はだったりしてね。だって、俺が高校生の頃の話ですから。
おニャン子を知らないとこの先の話全くもって意味不明なのでさらっと私が理解している内容を書きます。実態と違っていても今日の話のベースになっているのは私の理解なのでご了承下さい。


一言で言えば、普通の女子高生をアイドルにする企画です。むろんオーディションはありますけど。今のおれだったら「そんなこと言ってもどうせ仕込みでしょ?」と思っちゃいますが当時はそうと信じていましたし、実際通勤?途中の女の子を電車の中で見かけたこともあります。
おニャンコを仕掛けたとされる秋本康氏、いや、もしかしたら表に出ているのは彼でブレーン的な存在の人がいるのかもしれないけれど秋本康氏ってことにしておこう、はアイドルビジネスを変えたか、あるいはアイドルビジネスの変化をつかみいち早くその波に乗ったという感があります。
雲の上の存在だったアイドルが身近なところに降りてきたって感じがしたんですよねぇ、当時。その是非についてはここでは触れませんが……。


さて、それを踏まえてです。
現在の、少なくとも日本のインターネット(笑)では、フツーの人(にみえる人)がある日突然言論の表舞台に出てくるみたいに見えることがわりとよくあります。そして、その人の書いた言葉を読む人はそういう言論の舞台に出てきた人たちとコメントやらなにやらでコミュニケーションを取ることが気軽にできます。オフ会とかで直接会ってしゃべったりすることだってできちゃいます。
今まで言論の世界にいる人って言うのはおニャン子以前のアイドルみたいな存在だったわけです。ファンサービスはしてくれるけれどあくまでも雲の上の存在、直接話をする機会はあってもあくまでも筆者と読者という厳然とした関係があった。
インターネットでフツーの人が自分が思ったことを書くようになってその関係が曖昧になったと思うのです。自分の側にいるような普通の人が多くの人に読まれ、影響を与えるようなことを書いている。
そういう人と直接コミュニケーションをとることが自分にはできる。
さらに、もしかしたら自分にもそれができるのかも知れない。
もしかすると今いろいろ書いている人よりも自分の方が注目されるかも知れない。いや、注目されてしかるべきだ。
などと思う人だって当然いると思うのですよ。


それを一言で表現した言葉が


言論のおニャン子クラブ


です。




おニャン子クラブの卒業生たちがその後どうなったのか?詳細は知らないのでWikipediaなどに譲りますが、今でもテレビでよく見る人もいらっしゃいます。芸能界に残った娘たちは相応の覚悟と、相応の才能と、そしておそらく相応の運を持ち合わせていたのでしょう。
ネット言論界はどうなるのでしょうか?おニャン子と違ってオーディションがありません。強いて言えばそれなりの数の人に読まれるって事がオーディションになるでしょうかね。でも、そのオーディションを勝ち残っても、それなりの覚悟と、それなりの才能と、そしておそらくそれなりの運を持ち合わせていないと10年経った頃には忘れられてしまうのでしょう。
そして、生き残ったとしても、既存の芸能界に組み込まれたおニャン子出身の女の子たちのように既存の言論界に組み込まれてしまうのでは無かろうか?俺はそう考えています。
























で、それでいいのか?


いや、よくないだろう。そうなっちゃったらそれはそれでしょうがないけれど、他の道を探さずに諦めるのは悔しくないか??
俺はそう思っちゃうんですねぇ。


まぁ、常々言っているように、インターネットを使えば、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」が重視される時代がいずれ来ると思うんですよ。その時には既存の言論界などというものの存在意義は失われるのでは無かろうかと思っています。この話は読書感想文ともかぶるんですよね。そっちでも常々書いている「作者」を読むのではなく「作品」を読もうって話です。誰が書いたかというのはあくまでも情報の一つであり大切なのは何が書いてあるか、その書いてあることが面白いかどうかなんですよ。
しかしながら、自分の行動を振り返ってみても多くの場合「誰が」っていうのが購買動機になってしまうんですよね。小説はほとんどそんな感じで買っています。「この作者だから買おう」「この作者だから買うのをやめておこう」そう思っちゃっているんです。極めて自然に。


そうすると、何が起こるか。本来「面白かったり興味深かったりする作品なり意見を書いた人に」支払われるべき代償が「ある人が書いているから」支払われることになってしまう。著作に対する代償であるはずなのに、その著作の内容とは関係なく、著者単体に支払われてしまうんですね。
それはそれで別に良いかなとも思うのですが、本来あるべき姿ではないと俺は思います。


そんなねじれた状態が現代まで続いて来ました。しかし、インターネットの普及でもしかするとその流れを変えることができるのでは無かろうかと俺は思っているのですよ。
その世界で名前が通っているかいないか、影響力があるか無いか、そんなことには関係なく、書いた物それ自体の価値に対価を払う世界を実現できるのではないかなぁと夢想しています。




さて、後半部分を読む人は一体何人くらいいるのでしょうか?(笑)しかもおそらくここまで読む人ってこのサイトで同じ話を何度も読まされている人のようなきがしてなりませんね(笑)。
何となく書きたかったんでまた書いちゃった。すいません。