『新世紀エヴァンゲリオン』TV版のエンディング解釈その1

今日の記事はちょっと読者にやさしくない記事だと思えます。ある前提がないとわかってもらえないんじゃないかなぁと思えてならないです。そのことについては途中で触れます。
ロボットとしての「エヴァンゲリオン」についてとか、登場人物相互の関係については前に触れているので特に書きません。「新世紀エヴァンゲリオン」というタグを付けたので掘り起こしてください。どれもこれもこのサイトとしては(笑)短い感想ばかりです。


これまでの感想に「初めて見た」ってつけていたように、俺はこのアニメ初めて見たんですよ。面白かった。どのくらい面白かったかというと、アニメが苦手な俺が26話全部見るくらい面白かった。
でも、予備知識はあったんですよね。友人たちから聞いていた。「最後の2話がすごいぞ」と。で、昨日実際みてみました。確かにこれはすごい。常識から考えるとありえないです。




まず、結論から書きましょうか。


新世紀エヴァンゲリオン』TV版のエンディングは、主人公のハッピーエンドを描くと同時に物語としてのバッドエンドを描いているという解釈ができます。


さて、その解釈に至る過程でどうしても触れなければいけないことがあります。なんかねぇ、昨日釈然としない思いで見ていたんですよ。初めて見るはずなのになんか知っているような気がする。で、今日ふとそれに思い至ったんですよ。




ここから先、他作品について触れながら記事を書きます。
特にその中でも、京極夏彦著『塗仏の宴』についてはネタバレを含むことになると思われます。もっと言うと、読んでいない人にとっては意味不明な記事になるかも知れません。
これ以降の今日の記事は、『塗仏の宴』などの京極夏彦作品をあらかた読んでいて、かつ『新世紀エヴァンゲリオン』TV版を見ているという極めて限定された読者層に向けての記事になってしまいます。




25話で明かされた人類補完計画っていうのは、人それぞれが自分に足りない物を他の人で補うことによって結果的に争いごとや憎しみとは無縁の世界を創り上げるということなのかなと私は理解しました。
そして、その例として描かれたのが最終26話であり、そのターゲットとして描かれたのが主人公の碇シンジだったと理解しました。つまり、最終話で描かれたのはシンジが幸せになるエンディングであるけれど、他にもエンディングはたくさんあって、それらのエンディングではそれぞれの物語のそれぞれの主人公が幸せになるのでは無かろうか?そう理解しました。
その手段として使われたのが、まぁ、こう言い切っていいかわからないんですが……。俺には「洗脳」に見えるんですな……。


そこで連想されたのが前述の『塗仏の宴』なのですよ。

文庫版 塗仏の宴 宴の支度 (講談社文庫)

文庫版 塗仏の宴 宴の支度 (講談社文庫)

文庫版 塗仏の宴 宴の始末 (講談社文庫)

文庫版 塗仏の宴 宴の始末 (講談社文庫)

以下、深刻なネタバレのため一応反転テキストにしますね。
その作中では登場人物たちが自分たちの幸せを目指してそれを妨害しようとする「敵」と戦いながら突き進んでいくのですが、実はその「幸せ」自体が洗脳によるもの、つまりは虚構であったというオチになります。
それと同じことが作中で行われているのかなぁと無意識に想像した見たいなんですよね、俺は。
作品の発表年次で言うと『新世紀エヴァンゲリオン』は『塗仏の宴』より前です。でも『塗仏の宴』が『新世紀エヴァンゲリオン』の影響の元に産み出された作品と言うつもりはありません。京極夏彦作品の流れから見て極めて自然に生まれた作品なのでは無かろうかと感じています。
新世紀エヴァンゲリオン』には京極堂はいません。どちらかというと同じ京極夏彦作品である『巷説百物語』の主人公「又市」的な登場人物はいます。言うまでもなく碇ゲンドウですね。ただゲンドウの場合は、むしろ憎しみのタネを撒いて登場人物たちが偽りの幸せに逃げ込むように仕向けているように思えます。


新世紀エヴァンゲリオン』と『塗仏の宴』には毒と薬みたいな関係があるように思えてなりません。『新世紀エヴァンゲリオン』が薬なら『塗仏の宴』が毒、『塗仏の宴』が薬なら『新世紀エヴァンゲリオン』は毒になるような関係です。




ここまで書いておいてこんな事を言うのはなんなんですが、『新世紀エヴァンゲリオン』TV版のラスト2話は、とりあえずハッピーエンドにするためだけに作られた話のようにも思えるんですよね。本当の最終回は24話で、解決していない問題は伏線でほのめかしつつも謎のまま残るっていうのがスタッフのプランだったんじゃないかなぁ。
だから、24話以降はいろいろな分岐があるのではなかろうかと思えてなりません。当然まだ見ぬ初代映画版もそうですし、まだ作られてもいない2回目の映画版でもそうなるんじゃないかなぁ。


締まらない締めになってしまいましたが、おれ自身の中では『新世紀エヴァンゲリオン』はこういう形で解釈できました。こう考えることによって一応筋が通っているように見えます。おそらく同じような解釈をした人も既にいらっしゃると思います。


常々書いていることではありますが、長年生き残る作品って言うのは読んだ人見た人全員が同じ感想を持つような作品よりもいろいろな解釈ができる作品の方が多いように思えるんですよねぇ。触れる人によって、同じ人でも触れるタイミングによって全く違う顔を見せる作品ってのは何十年後かに読んでも新鮮に味わえるんでしょうねぇ。
というわけで、今日のこの記事の感想も「解釈その1」としてみました。でも「解釈その2」があるかどうかはわかりません。もし何か思い付いたら脈絡無く書くこともあるかも知れませんね。