読書感想文 『罪と罰』と『ハヤテのごとく!』

はい。ここからはタイトル通りですね(笑)。
おそらく『ハヤテのごとく!』を読まなければ『罪と罰』を読むことはありませんでした。この日記の読者様より『ハヤテのごとく!』とドストエフスキー作品には共通点があるという指摘されたのだけれど、ドストエフスキー作品を全く読んでいなかったのでさっぱりわからなかったのですよ。
去年一つ読んでみたのですが、初期の作品だったようで作品で語られる思想的な部分ではドストエフスキーの代表作の一つではあるらしいのですが、指摘を受けたようなことを感じることはできなかったのですよね。


さて、その共通点というのは「ポリフォニー」あるいは「ポリフォニック」という言葉で表現することができるということでした。
もしかすると初出はここではないのかも知れませんが、自分のサイトをGoogleで検索してみてその言葉が最初に出てきたのはここです。



実際にドストエフスキーの長編『罪と罰』を読んでみて、それを実感することがようやくできました。




まずは総論というか結論を書きます。あくまでも私の感じた結論なので一般的な者ではないことを念のためお断りしておきます。
確かに似ています。非常によく似ている。『ハヤテのごとく!』と『罪と罰』、この外見では似てもにつかない話が構成だけ見ると非常によく似ている。しかし、決定的に違うところがあるような気もするのですよね。それが何なのか、『罪と罰』を読み終えてまだ1日経っていない今の私にはわからないのですが何かが違うような気がしています。
今日は共通点と相違点について個別に書き進めながら、自分自身の考え方を深めていきたいと思います。




まずは共通点です。決定的なのは岩波文庫版の解説にあったこの言葉でしょう。

別に構想されていた『酔っぱらいたち』という小説をこの小説と一つにまとめあげようというアイディアが浮かんだ。酔いどれの小官吏マルメラードフはこの『酔っぱらいたち』から移ってきた人物であり

岩波文庫版『罪と罰』下巻 P425から引用


ハヤテのごとく!』の場合はもっと複雑な事情が作者から明かされていますが、発想としてはとても似ている。正しいかどうかはわからないですが、単純化してわかりやすくいうとこういうことになると思うのですよ。

と。
雪路とヒナギクはもともと『ハヤテのごとく!』と同じ時空での別の物語の登場人物だったと作者から明かされています。『罪と罰』の場合は、その別の物語の不幸な登場人物が最終的にメインヒロインになってるんですよねぇ。


そもそものきっかけはそういう意図ではなかったのだとしても、複数の物語を一体化させることによって、より複雑で読者が読むたびに違う感想を持つことができるような作品ができるような効果が得られるということなのではないかなぁと理解しています。




もう一つくらいは共通点を挙げておきたいですね。うまく言語化できないのですが……。
上の感想にも書いたけれど、『ハヤテのごとく!』も『罪と罰』も、ほとんどの登場人物が背後に物語を持っているんですよね。だから上の『罪と罰』感想では、登場人物の一人であるラズミーヒンの視点で感想を書いてみるという提案ができました。『ハヤテのごとく!』に置き換えると誰になるのかなぁ。メインヒロインの一人に恋をするという立場で考えると西沢弟ですかね(笑)。まだその視点で感想を書くのは無理だなぁ。そこまで出番がない。


とにかく、それぞれの登場人物がそれぞれの行動理念に基づいて行動をしている、同じ登場人物であっても、置かれた状況に応じて別の行動をしているっていうところに共通点を見いだすことはできますね。




もう一つ共通点。
それは人間関係。『罪と罰』の方はもう1回くらいは読まないと正確に言い当てることができないのですが、登場人物間の関係が錯綜しています。今の状況で印象に残っているのは、ロージャの犯行がスヴィドリガイロフに露見するところですかねぇ。ロージャにとっては青天の霹靂だったでしょうね。伏線はちゃんとあったはずなのでしょうけど。まぁ。それ以前にロージャの言動はあまりにも軽率だったとしか言いようがないのですがねぇ。推理小説的には。でも、その軽率な言動が彼自身が救われる原動力の一つになっているんですよね。彼があそこで思慮深かったら彼は救われなかったのかも知れません。
ハヤテのごとく!』の場合はそんな人間関係がたくさんあります。まだ物語中盤なので読者にのみ明かされている関係も多いです。ワタルくんのビデオ屋をインターフェースとして登場人物がつながっているとは、本人たちには想像もつかないことなんでしょうね。そして、西沢姉弟に至っては、2人の恋の相手と恋敵が同じ人物だなんて事はまだ想像もしていないんでしょうねぇ。






さて、続いて相違点なのですがね。こちらが難しいのですよ。考えれば考えるほど
まずは、もしかするとこれ、『ハヤテのごとく!』が完結すれば共通点に化けるかも知れないのですが……。
全編を通した空気です。
罪と罰』は重いのよ。重く感じる。最後の最後まで重く感じる。『ハヤテのごとく!』は、今のところですが、統一感が無いのですよ。基本コメディなのですが、シリアスな場面もそれなりに散りばめられていて、それがスパイスのように効いているように思えます。
しかし、あくまでも途中だからそう思えるだけなのかも知れません。最後まで読めば全編を通した空気を感じることができるのかも知れません。でも、『罪と罰』は最初から最後まで、読んでいる途中でもその重さから逃れることが私にはできなかったのですよね。




もう一つ。これは今自分が書ける中では決定的な相違点です。
物語の柱の有無です。
罪と罰』では、曲がりなりにも柱があるのですよね。ロージャの犯罪とその露見という柱が。柱だけ追ってもわからないけれど一応柱がある。
しかし、『ハヤテのごとく!』にはそれがないのですよ。主人公視点での柱がない。主人公のハヤテは「ナギを守る」という役割を自覚していますが、それはあくまでも成り行きで今そうなっているだけなんですよね。対するロージャの場合は、殺人を犯すことを自分の使命と思うほどに思い詰め、作中では読者にロージャの思想背景までも説明し、結局それを償うことで幸せになると言う展開です。『罪と罰』は柱がはっきりしています。ロージャの殺人、それが露見したら「この」物語は終わるというのがはっきりしていました。
さっき「『ハヤテのごとく!』にはそれがない」と書いたけれど、正確には「それがあるのかもしれないが今の段階では私にはわからない」なんですよね。
いずれにしろ、物語の途中まで「普通の意味で」その物語の終了条件が全く見えないと言う点では『ハヤテのごとく!』と『罪と罰』とは全く違うのではないかなぁと私は思っています。
いやいや、『ハヤテのごとく!』には終了条件があるとお前自身が言っていたではないか、そしてそれは作者の言葉で裏付けまで得ているではないか、と突っ込まれそうですが、私が思い付いた『ハヤテのごとく!』における物語の終了条件は「普通の意味で」の終了条件ではありませんよね。その日が来たら、作者の思い通りになるかどうかはわからないけれど物語は終わってしまうのですから。日付や時刻を終了条件にする場合は、最後まできっちりと物語を作ってないと普通は無理だと私は思うのですよ。それを読者の反応などの外的要因を見なければならない週刊少年漫画雑誌の連載でやるというのは暴挙と言っても過言ではないと思いますよ(笑)。




この日記サイトを書き始めた当初から、本の感想を書こうとは思っていました。小説とか新書とか漫画とか、そういうジャンルの縛り無く書こうとは思っていました。しかし、まさかこうなるとは思いませんでした。
検索誤爆をきっかけにして、今までちゃんと読んでいなかった過去の名作を読み始めたのはまだいいとして、『ゼロの使い魔』をきっかけにして『三銃士』を読んでみたり、『ハヤテのごとく!』をきっかけにして『罪と罰』を読んでみたり、一見関連性のない作品から別の分野への扉を開くという展開は思いもしていませんでした。


罪と罰』がこんな作品だとは思ってもいませんでしたよ。自分で読まなきゃわからないですね。ほんと。せっかくなので別の翻訳版も読んでみようかなぁと思っています。読み返すと全然別の感想を持つかも知れません。そして『ハヤテのごとく!』との別の関連性も見いだせるかも知れません。
もし、そうなったら、もう一度、全体の構成は同じであっても内容が微妙に違う感想を書いてみたいなと思っております。