読書感想文 ドストエフスキー著『罪と罰』

罪と罰〈上〉 (岩波文庫)

罪と罰〈上〉 (岩波文庫)

罪と罰〈中〉 (岩波文庫)

罪と罰〈中〉 (岩波文庫)

罪と罰〈下〉 (岩波文庫)

罪と罰〈下〉 (岩波文庫)



今日アップロードするもう1本の記事にある経緯で今さらこの作品を読んでみました。タイトルとおおよその内容は知っていましたが読むのは初めてだったんですよねぇ。こういう格調が高いという印象がある作品はどうも私にとっては子供の頃も今も敷居が高く感じます。
年末から読み始めて昨日ようやく読み終えました。


まず。率直な感想を。


おもしろかったです。とてもおもしろかった。そして、読後感もよかったです。上巻あたりは取っつきづらかったですが、最後までちゃんと読めば難しいという作品というわけでもありませんでした。




タイトルに書いたようにこの作品に関して言うとあらすじを語ることに意味があるとは思えないのですよ。でも、そう思えるようになるのは最後まで読んでからという人の方が多いのかなぁと思うのでちょっとだけ書いてみます。ええ。私自身も最後まで読むまでは物語の筋立てを必死になって追っていたのですけれどね。


翻訳に寄るところも大きいのかなと思うのですが、この作品、登場人物の名前の呼び方がころころ変わります。まずはそれになれないと読みづらいのですがあらすじでは原則短めの呼び方に統一してみましょうかね。


主人公のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(ロージャ)は大学を中退して心と体のバランスを崩した状態になっています。そういう状況で、ロージャは自分自身の信念に基づいて高利貸しの老婆を殺すことを決意します。
思いがけない幸運?に見舞われ、彼はその計画を実行に移すことができ、そしてそれは成功しました。


しかし、犯行の後もロージャの調子は戻らず、彼の友人であるドミートリイ・プロコーフィチ・ラズミーヒンや医師のゾシーモフによって半分保護された様な状況になります。
そしてそこにロージャの母、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、妹、アヴドーチャ・ロマーノヴナ(ドゥーニャ)がやってきて、ドゥーニャに求婚するいけすかない(とロージャが思っている)弁護士、ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンやらが絡んできてわけのわからないことになります。
そんな中、ロージャが飲み屋でたまたま知り合ったセミョーン・ザハールイチ・マルメラードフが馬車に轢かれ亡くなってしまいます。彼には手厳しい妻、小さい子供、そして、生活のため娼婦として働いている娘、ソーニャがいました。ロージャはマルメラードフの遺族に、妹の結婚の見返りとして得たお金をそのまま葬儀費用として渡してしまいます。


ロージャの犯行は、様々な要因が重なってなかなか露見しません。しかし、警察署で出会ったポルフィーリイ・ペトローヴィチに「疑われているのではないかという疑い」を抱きます。ポルフィーリイはロージャがかつて書いた論文を引っ張り出し、その考え方に敬意を払います。


そんな中、ドゥーニャがかつて家庭教師として住み込んでいた家の余りよろしくない噂のある主、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフが物語の舞台である川と島の街、ペテルブルクにやってきます。スヴィドリガイロフはロージャたちに金銭的な支援をするのですが、彼の来訪はこの物語の終わり、すなわちロージャの犯行の露見を予感させる物に他なりませんでした。





あらすじを書いてみましたが、このあらすじはあくまでも私の印象を言葉にした物なので実は正確ではありません。特に最後の1文は明確な誤りであることはわかっているのですが、私はそういう印象を持ったのであえて書きました。


ものすごく複雑なお話です。登場人物それぞれが主人公であり、それぞれが物語を持っています。そして、それぞれの物語を対比させることによって、それぞれの物語を個別に読むよりも、より複雑な感想を読者に持たせるような仕掛けになっています。




全編を通したテーマというか本筋は明確です。ロージャが犯罪を犯し、それが露見し罰を受けるまでというのがこの作品の柱です。しかし、それだけではないのですよねぇ。というか、その柱はむしろ作品全体に統一感があるように読者に印象づける仕掛けに過ぎないのではないかとさえ思えてきますね。


冒頭から恵まれない境遇の登場人物たちが出てきて、全編に暗さを感じさせる物語なのですが、なんとまぁ、ハッピーエンドと言ってもいいエンディングが用意されていることに驚きました。
私は、真剣に信仰している宗教がないので想像でしか語れませんが、この物語の背後には罪を犯した者であっても、それを償う罰を受ければ魂は許されるという考え方があるのかなぁという感想を持ちました。それをより明確にするためにスヴィドリガイロフの一件が描かれているのかなと。彼は罪を認めなかったが故に破滅への道を歩まざるを得なかったのかなぁと私は思いました。


死んでいった人を除いて、生き残った人々のうち救われていないのはルージンだけなのかなと私は思いました。ある意味、亡くなった人々よりも救いがないのかも知れません。彼は作中で他人を支配することに血道を上げるという描かれ方をしています。この作品ではそういう生き方に対して批判的な見方をしているようです。


ロージャの理解者として2人の人物が描かれています。しかし、その2人はロージャにとってはそれぞれ別の意味で都合の悪い人物です。一人は妹に対して邪な感情を抱くスヴィドリガイロフ、もう一人はロージャに疑いを抱き、ロージャの犯行を確信するに至るポルフィーリイです。スヴィドリガイロフは自ら破滅への道を歩みますが、ポルフィーリイの物語は余り多く語られていません。ポルフィーリイはロージャに償いの道へ歩ませるきっかけを用意した、一種の「神」の様な存在として描かれているように私は感じました。




さて、この作品の感想を書くにあたり、まず視点を決めてから欠きたいという考え方もあるかもしれません。ここからは少しだけそういう見方でこの作品を分析してみようと思います。


主人公はロージャ。これは間違いないです。今風の言い方で言うと、メインヒロインはドゥーニャとソーニャでしょうね。冒頭から出てきている訳ではないのですがこの2人が主人公のミクロな意味での行動を決定しているように見えます。


しかし、その3人の視点で物語を読むのは正直つらいです。もし私が誰かの視点で感想を書くとしたら、迷わずラズミーヒンを選びますね。この作中では「普通の人」として描かれています。比較的感情移入しやすいです。そして、ラズミーヒン自身、メインヒロインの一人に恋をします。彼は彼の物語の主人公でもあります。友人であるメインヒロインの兄が調子が悪い。そして、彼には殺人の嫌疑がかけられる。ラズミーヒン自身はロージャが犯罪をおかしたことを認めようとはしていないけれど、ラズミーヒンの行動が実はロージャの犯行の露見に一役かってしまっている。なんという皮肉な展開でしょうか。
そして、ラズミーヒンには夢がある。彼は、愛する人とともに、思いもかけず得ることができたお金を元手に事業を始めるという夢がある。全体として暗さを感じる作品にほとんど唯一の明るい光を照らす登場人物なのかなと私は思いました。




罪と罰


たしかに名作なのでしょう。傑作なのでしょう。しかし、理解するのが難しい名作というわけではないということが実際に読んでみて初めてわかりました。あらすじを聞いただけではわからない面白さがある作品です。この暗さに耐えられない読者も多くいるでしょう。私自身も途中で投げ出したくなったことは否定できません。ところが、最後まで読み切ると全く違う感想を持つに至りました。
ロージャとソーニャ、そしてラズミーヒンとドゥーニャ、『罪と罰』最後の一文にあるように、それぞれの物語はこの先も続きます。あくまでもこの物語が終わっただけです。その新しい物語を予感しながら、私は別の翻訳でもこの作品を読んでみようかなと今思っています。