tanabeebanatの日記に『ハヤテのごとく!』考察記事を期待している皆様へ

このテキストを書いているのは2010/3/23。265話を読む前夜です。


実際に表題のような期待をしている人がいらっしゃるのかはわかりません。私自身、自分が書いているのは決して考察ではなく感想だと思っていますし。確かにかつて「考察」と受け止められかねないような記事をいくつか書いていました。私自身では、毛色の違う感想という感覚ではありましたがそれは否定しません。


しかし、そういう記事を書くことはずいぶん前にやめています。正確には、2007/2/21が最後です。あの日「スーパーハイブリッド構造」という言葉を思い付いた時に、私自身の『ハヤテのごとく!』に対する感想は完結しました。





面白いのだけれど、そして、その面白さは説明できる種類の物のはずだという感覚があるのにその理由がわからない、そのもどかしさが、あの日までの『ハヤテのごとく!』感想を書くモチベーションになっていました。
あの日、それが解決しました。たった一言で、この作品が面白く思える理由が、そしてもしかすると、この作品を気に入らない人がなぜ気に入らないのかという理由も説明できてしまう言葉、それが「スーパーハイブリッド構造」でした。


あの時ようやく私の中で『ハヤテのごとく!』がいったいなんなのか理解できたのです。もちろん、その理解が正しいのか否か、私には確認するすべはありませんし、正直確認したいとも思わないです。確認してしまったら、その結果に関わらず興ざめになるのでは無かろうかという思いが強いからです。


ハヤテのごとく!』は、その構造的に、定期的に読者がある程度入れ替わるという問題を抱えていると思っています。逆にその弱点を補強したら『ハヤテのごとく!』は『ハヤテのごとく!』ではなくなるとさえ思っています。おそらくは今までも何度か読者の入れ替えが起こっているのでしょう。入れ替えによって減る読者と増える読者が拮抗している、あるいは増える読者の方が多いからそれなりの人気を保っているのではないかなと想像しています。
この暫定最終回でも、ある程度の読者の入れ替えはやむを得ないでしょう。それを避けて通っては『ハヤテのごとく!』は前に進めない。




ハヤテのごとく!』は、他の多くの人たちにとっては数ある漫画の一つなのだろうなと想像しています。しかし、私にとっては『ハヤテのごとく!』は人生の中でめったに巡り会えない「本当に夢中になれる」作品の一つ、それも今のところは一番夢中になれた作品になってしまいました。漫画とか小説とかドラマとか映画とか音楽とか……、そんなジャンルは関係ないです。夢中になれた、その1点で私は『ハヤテのごとく!』と、それを産みだした畑健二郎さんには感謝しています。


いつの間にか、2007/2/21に書いた116話以降の感想の方が116話以前の感想よりも多くなりました。理解するまでの時間の方が理解してからの時間よりも短くなったということですね。最近、このサイトの感想を読んで下さる方は2007/2/21までの迷走っぷりをご存じないのかもしれません。今でもめちゃくちゃですが当時はこんな物ではなかったですね。毎週手探りで感想を書いていました。いや、それが楽しかったんですけれど。
先のことはわかりませんが、おそらくこのサイトに私が「考察」記事を書くことはほとんどないでしょう。仮にあったとしても、すべてベースとなる考え方があってそこから派生した内容になるので新しいことは書けないのでは無かろうかと思います。
それでも事情が許す限り私は『ハヤテのごとく!』の感想を書くことをやめないでしょう。できることならば最終回、そして最終巻の発売まで感想を書き続けていたい。書かなければいけないから書くのではないのです。書きたいから書く、ただそれだけのこと。予想通りの展開だったらそれはそれで楽しいし、予想を裏切られればそれもまた一興。面白ければもちろん楽しいし、イマイチであってもその理由を探っていく作業がまた面白い。
前のような長文はめったに書かないかも知れませんが、これからも感想は書いていこうと思っています。


たとえ『ハヤテのごとく!』以上に読者が入れ替わったとしても……。