平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震 感想



1ヶ月経ちました。あっという間だったような気もしますが、とても昔のことのような気もする。不思議な気分です。
直接的な被害は軽微、いや、軽微じゃないんだけれど相対的にはとても軽微だったからかもしれません。しかし、あの地震の前の日常と、あの地震の後の日常とはなんとなく連結していないような思いがあります。


私は地震などの現象には子供の頃から興味を持っていて、専門家ではないけれどほとんどの人よりは余分に勉強をしていました。そして、ブルーバックスを始めとする自然科学系の新書にも興味を持ち、面白そうな入門書はわりと多く読んでいる方かもしれません。
なまじ半端な知識があるだけに、報道などで伝えられている今回の地震とそれが引き起こした災害について、世間一般の感覚とは若干違う感想を持っているようにも思っています。


人とは違うことを書いたり言ったりすることにはリスクがつきまといます。しかし、それを恐れては何も書くことも言うこともできなくなります。完全に自分と同じ考えを持つ人はめったにいないのですから。




この記事は、地震という自然現象と、それに影響を受けた人類に対する感想です。感想なので、あえて、いつも某漫画の感想を書くときに使っている構成で書いてみます。



ポイント

地殻変動

強烈と言うほか無い。
5m以上の移動ですよ。並みの地震じゃないです。生きているあいだにこんな大きな地殻変動に立ち会えるとは思っていませんでした。
これだけの地殻変動を精密に測定することができたというのは、人類にとって大きな財産になると思います。
そして、もう一つ。津波によって浸水してしまったところがこれほど多いとは思いませんでした。そして、これは自分で調査したり文献を当たったわけではないので想像なのですが、松川浦や松島の美しい風景は、もしかしたら過去の巨大津波によって出来上がったのかも知れないですね。別の地域で言うと浜名湖とかね。ああいう湖や入り江がどうやってできたのか、不思議だったのですが、実際にできているんですよねぇ。

津波

舐めてました。
前に三陸旅行に行ったとき、巨大な防波堤と水門を実際に見たんです。申し訳ないですがその時はこう思った。
「金で安全を買ったんだな」
と。
まさにコンクリートの固まり。普段見ると無駄な構築物以外の何者でもありません。どうしてこんな所にこんな物を作るのか、理解でき無いとすら思いました。
しかし……。実際には別の意味で無駄になってしまった。いや、無駄にはなってないでしょうね。若干ではあるけれど津波の威力を低減させることに役立ったでしょうから。
日本でも、そしておそらく世界的に見ても三陸地方は津波防災の最先端を行く地域だったはずです。人間の知恵と富が惜しみなくつぎ込まれていたはずです。しかし、それをあっさりと飲み込む偉大なる自然の力の前には呆然とするほか無いです。

帰宅難民

実際にこうなるんだな、というのを、まさに身をもって体験しました。生きているうちにもう1度くらい体験することになるのかも知れません。百聞は一見に如かずとはよく言った物で、一度経験することによってなんとなく感覚がつかめたように思えます。

原子力発電所

まとめで。

停電

あまりにも電気に頼りすぎていると言うことを痛感しました。電力以外のエネルギーって研究されているのでしょうか?利用しやすいから電力を使っているのだろうと思うけれど……。

まとめ

繰り返しになりますが、あまりにも巨大な自然の力に呆然としました。まさかこんな自然現象を比較的近くで目の当たりにできるとは思っていませんでした。もし、実際にそう言う局面に遭遇したら運が良ければ生き残れる、と思っていました。運は良かったようです……。
古い知識がベースではありますが、私の知る限り、あの地域でマグニチュード9.0クラスの地震が起こるということは想定されていなかったはずです。もちろん可能性は決して0ではなかったけれど、数万年に1度というレベルだったはずです。
学生時代、地震の専門家に教えを受けたことはありませんが火山の専門家には教えを受けました。その先生が言うには「数万年前」は「つい最近」なんですよね。だから数万年に1度起こるというのは、学問的な感覚から言えば「起こり続けている」と言ってもいいんでしょう。しかし、いつ起こるかわからない。そして、約30年に1度、より小規模だけれど被害が起こるレベルの地震が発生することはおおよそわかっている。そういう地域でした。
まさか岩手から茨城までの沖が一気に動くとはねぇ。


だから当然この規模の津波も想定外だったということになります。まだデータが出そろっていないでしょうけれど、過去に起こった中でも最大規模の津波でしょう。地球規模で見れば大したことはなくても人類の営みという時間軸で言うと未曾有の大津波が襲った、ということになるでしょう。




私は職場でこの地震に遭遇しました。かなり地盤がよく、かつ震源から離れた場所です。そこでの揺れを体験して正直、こう思いました。


日本、終わったな


と。


あり得ないレベルの揺れでした。この地震の後言われている、東海、東南海、南海連動が起きたかと思いました。遠くでマグニチュード8.5レベルの地震が起きたと言うことは、おそらくは津波も起こるだろうし、震源地に近い地域は壊滅的な打撃を受けるであろう事は想像がつきました。
しかし、実際は違った。日本海溝だった。フィリピン海プレートユーラシアプレートの境界ではなく、太平洋プレートと北米プレートの境界で起こった地震だった。


私は、自分のことをもう少し強い人間だと思ってました。強い、というとポジティブな響きになるけど、ちょっと違って、冷静、さらには冷酷な人間だと思っていたんですよね。
こういう、自分の興味に沿った自然現象が起これば、喜々として調べることができるような人間だと思っていました、というかそう言う人間だと思っていたかった。実際には違いました。自分の命、家族や友人の命を心配するただの人でした。冷静に自然現象に向き合うことなんてできませんでした。1ヶ月経った今、ようやく少しだけ客観的に日記に書くことができるようになる程度の人間でした。
学者にならなくて良かったなぁと思いましたね。学者だったら、こういう生涯に1度有るかどうかのチャンスをふいにできるわけがない。もっというと、こういうチャンスを生かせないのだったら研究する意味がないです。発生直後、危険を顧みず、また、被災した人のことさえも考えず、あらゆる手段を駆使して現地に向かい、状況を記録し分析するような根性がないとつとまらないでしょう。そう言う人がいて、初めて防災計画が立てられるんですよね。調べもしないで「二度とこのようなことが起こらないように」とか言ってもしょうがない。


そんな自分の弱さに改めて気づかされた地震なのですが、自分以外の人たちもそれなりに弱さを抱えているのだろうなと思います。
今回の地震、一番しっくり来る表現は「天罰」ですね。とある人が言って怒られた言葉と同じですがニュアンスは違うかも知れない。同じかも知れないけど。
何が悪いのかはわからないけれど、天が我々に下した罰である、と考えるしか納得する方法が見あたりません。おそらく「天罰」発言に怒る人は、自分自身は罰を受けていないと思っているのでしょう。私はそうは思っていなくて、少なくとも東北から関東に住む人たちにとっては等しく与えられた天罰だと受け止めています。運がいい人は大きな被害に遭わなかったけれど、それはたまたまそうだっただけで罰は与えられた、と受け止めています。繰り返しになりますが、何に対する罰なのかはわかりません。そもそも、罰を受けるような事は何もしていないのかも知れない。それでもそう思わないとやってられないのです。
人は自分以外の誰かのせいでひどい目にあったと思いたい物です。誰のせいなのか?それを考えるとやっぱり天罰というのがいちばんしっくりくるなぁと私は思います。
しかし、そうでもない空気が流れているのもまた事実です。最初に叩かれるかなと思ったのはJRだったんですよね。あの列車の映像。怖かった。しかし、恐るべき事に人的被害が出ていなかった。最善を尽くしたかどうかはともかく被害は出ていなかった。そして叩かれているのは東京電力です。
原発と停電。袋だたきですな。叩かれるようなことをしているからしょうがない、と思う人もいるでしょうが、「誰かを叩かないとやってらんない」という思いも裏に潜んでいるのではないかと勘ぐっています。
地震の後、もし津波が来たら原発はもう駄目だ、と思ったんですよね。そして、日本終わったな、と思ったんですよね。あのエリアでこの規模の地震津波が起こるとすると、設計限界を超えるのが普通だと思いましたからねぇ。今回の地震はそれだけの規模の地震なんですよ。そうそう起こるもんじゃない。想定するだけ無駄なレベルの地震。1000年に1度の地震があるけれど、そのリスクを見越して作った東海道新幹線の例もありますし、そのこと自体を責める気にはなれないのですよね。しかし、現実として起きてしまった。そして、避難している人たちや被害を受けた人たちには申し訳ないし、自分たちにとっても申し訳ないような言葉なのですが、今のところこの程度で済んでいるというのが驚きです。
人間が戦えるレベルを超えた自然災害だったはずなのですよ。しかし、現実には戦っている。勝てるかどうかまだ余談は許さないけれど戦えている。
本来なら戦う前に負けが確定している勝負だったはずです。




今回の地震では自然の力の巨大さ、それに対する人間の力の弱さをかいま見ることができたように思えます。そして、そのうちの一つとして、原子力発電所の問題があると私は捉えています。原子力は人類が手に入れたもう一つの火です。危険である物をコントロールすることによって自分たちの力に換える、人類はそうやって成長をしてきました。しかし、原子力を手に入れてからまだ100年経っていません。コントロールしきれていない。そして、その力が巨大であるが故に、コントロールを間違えると、大きな犠牲を産み出してしまう可能性もあります。




地震から1ヶ月。まだ復興への道のりは遠いです。この地震を体験した私が思ったように、日本は終わってしまうのでしょうか?
そうとばかりも言い切れない、と今になって思えるようになってきました。
この島国に暮らす人が、他の地域の人たちから蔑まれ、時には恐れられ、そしてまたあるときには敬われる理由、その理由の一つは、「受け入れるけれど諦めない」という気質にあるのではないかなと思います。地震津波、火山噴火のみならず、大雨による洪水、土砂災害など自然の営みに痛めつけられることに慣れている、ということもその気質を得るようになった理由の一つなのではないでしょうか?
自然の力を受け入れる。時には大きな犠牲すらも受け入れる。しかし、決して諦めない。次もまた同じ事が起こるかも知れないけれど諦めない。自然の力と戦うのではなく受け入れた上で諦めない。
だから、この災害も受け入れた上でもう一度やり直すことができるのかも知れません。


自然の力は巨大です。なすすべがありません。受け止めることもできなければ戦うこともできません。そう言う思いとは裏腹に、それでも人類はその力を受け流して利用するすべを身につける知恵を持っているのではないかという希望も捨て切れません。
そんな相反する2つの思いに未だ整理をつけることができず、そして、そもそもその思いだけを考えるほどの強さも持ち合わせてはおらず……。かといって、なまじ知識があるだけに2度とこんな事が起きないようなどと軽々しく言うこともできず……。
未だ混乱の中。


この混乱は年月が解決してくれるのでしょうか?あるいは人間の短い一生の中で解決するような問題ではないのでしょうか?