3.11

今年は土曜日です。毎度同じことを書いているような気もしますが……



あの地震の前も後も、毎年東北へドライブ旅行に行っていて、帰り道には関東からは日帰りで行けないところを回ることにしています。
三陸海岸は日本屈指の景勝地なので何度も行きました。
地震の前、どうみても「無駄」にしか見えない防潮堤に呆れ、どうみても過大に評価しているようにしか思えない津波の想定浸水域に驚き、そして地震の後、その「無駄」が打ち壊され、過大評価のさらに上を行く力の傷跡を目の当たりにし、そのラインから上と下の厳然たる差に慄然としました。
対抗するために必死に抵抗をしてもそれをたやすく越えてしまう自然の強大な力。
国道を走り山を下りて港が見えて町中に入り交差点を越えるとまた山を登る。その道自体は変わっていないのに山を下りたところには港も町も無くなっている。その景色を忘れることはできません。

  • 福島

別に意図したわけではありません。大元のルーツが福島にあるので何年に1回かは福島まで所用で行きます。それがたまたま地震から1ヶ月くらいしか経っていない、桜の花が咲く季節だったというだけの話です。
通常うちからだと何の迷いもなく常磐道で向かうことになりますが、そのときは復旧したばかりでした。
驚きました。やる気になればこんなに早く復旧できるんだなと。そして、橋梁やトンネルの強固さに。路盤がゆがんでいるのは盛り土部分でそこと橋梁、トンネルの接続部に段差があるという状態が延々と続いていました。
福島にはぱっと見ただけでは東京近郊よりもむしろ被害が少ないのではないかと思えるような景色が広がっていました。見えない敵さえいなければすぐにでも日常を取り戻せそうな雰囲気でした。
その後も何度か福島には行きました。常磐道が全通し路面の修繕も少しずつ進んでいますが未だ時間が止まっている地域を通ると言葉にはできない思いが去来します。

  • 東京

昨日も府中の居酒屋からメールが来ました。あの日、帰宅できずに飲み明かして以来行ったことはなくこの先も行くことはないでしょう。
たまたま遠い現場での作業だったので本当の混乱は逆に知らずに過ごせました。
そのときの職場には休憩所にテレビがありました。
あの揺れを経験したとき、直感的に「東海&東南海か相模湾が来たか」と思いテレビに向かいましたが、実際の震源日本海溝。私が大学で学んだ頃には想定されていなかった規模の地震が起きたことは明白でその後何が起きるかも連鎖的に頭をよぎり「早く逃げろ」「原発の中の人がんばれ」と無理な祈りを心の中で捧げていましたが、完全な形での奇跡は起きませんでした。
それでも、あの規模の地震で発生した被害としては思ったよりも小さな被害であるというのが逆に恐ろしいところです。私は悪い方向に転がることを想定しがちなので、「日本、完全に終わったな」と思っていました。
本当の被災地からは離れていたため、たった数日の混乱を経て、とりあえずの日常を取り戻しても、そして今に至るまで、あの地震の前には戻れません。あの日を境に別の人生が始まったような、違うな、あの日以降は余生という感覚が未だに続いています。




友人と「あれから人生観変わったよねぇ」「そりゃ誰だって変わるよ」というような話をすることがあります。それはみんなが共有できるようなことではないのかもしれません。
東北旅行でも目的地となっている奥羽山脈内の温泉地はあの地震での被害はさほど大きくなかったとのことですし、フォッサマグナの西側では結節点となる東京への交通網やサプライチェーンを除いては影響は軽微だったのかもしれません。
近畿地方のみなさんにとっては1.17の方が人生観に大きな影響を与えたのではないかなと想像しています。


自然の巨大な力を目の当たりに体感したとき、今まで培った価値観が打ち壊され自分や周りを見つめ直さざるを得なくなり、時には新しい役割に目覚め、時には壊れ、どちらに転がるかはともかくとして変化を余儀なくされるということもある、そして、地震に限らず巨大な自然災害にさいなまされることが多いこの島国に住む人たちは、他の条件の場所に住む人たちに比較すればそのことに慣れている、それが一種の国民性を作り上げているという一面があるのではないかと考えています。