高橋留美子著 うる星やつら




週末に物語論的な物を書き始めて6回目だ。今回ようやく漫画の
話を書くことにする。
1回目に書いたことだが、ぼくはあまり漫画を読まない子供だっ
た。なので、今週書いた赤松健論のような、詳細な評論はできな
いと思う。
逆に漫画を知らない人間が漫画について語るとこうなるというサ
ンプルにはなっているのかもしれない。


今日から2回、唯一作家で読んでいる高橋留美子さんの作品につ
いて考えてみる。どちらを先に書くか非常に迷ったのだが、今日
うる星やつらを紹介する。

うる星やつら (1) (小学館文庫)

うる星やつら (1) (小学館文庫)



本論に入る前に、高橋留美子さんの作品を語った本として平井和
正氏の著作を2冊紹介する。前にも書いたが、この2冊の本を読
んでぼくの漫画という物に対する見方が大きく変わった。
高橋留美子の優しい世界―女神の“おもしろユートピア” (トクマ・ノベルズ)
高橋留美子の優しい世界―「めぞん一刻」考 あとがき小説「ビューティフル・ドリーマー」




この作品については、いまさらぼくごときが語る必要はないであ
ろう。世界中のオタクを熱狂させた、そしていまでも熱狂してい
る人がいる作品である。


この漫画は果たして「ギャグ」なんだろうか?それとも、「ラブ
コメ」なんだろうか?
ぼくはうる星やつらは「ラブコメ」要素を取り入れた「ギャグ」
と定義する。もちろんそれ以外にもぼくが気づいているもの、気
づいていない物含め隠れた要素は多々あるわけだが・・・


ギャグであると定義する理由は、漫画内での時間の進み方である。
この漫画では時計は止まっている。主な登場人物が高校二年生近
辺から成長することはない。
うる星やつらに限らず、このような現象は他のギャグ漫画で多用
されている。その理由はなぜか?
これも、他の評論的な物で多々言及されていることではあるが、
ギャグ漫画の登場人物は記号化されているのである。


たとえば諸星あたるが浮気をすればラムちゃんは怒って電撃を出
す、など、行動パターンがほぼ決まっている。たまにそれをずら
すことによって別の笑いや物語性を示唆することもあるが、基本
的にはパターン化された話なのである。
このことはギャグ漫画に限らず、たとえば水戸黄門などの時代劇
にも当てはまる。他の国のことがわからないのでこういう書き方
になるが、日本人には非常になじんだ進行方法なのである。


記号化することによって、たとえばキャラクターをみんなまとめ
て別の時代に持っていって別の設定で物語を作るなどということ
も可能になる。
漫画の基本設定のままの話を作っても良いし、別の時代、別の設
定に飛ばしたことによるずれを笑いのネタにつかってもよい。
いずれにしても、描かれるキャラクター達の行動パターンを読者
は把握しているわけで、その話自体に違和感を感じることは少な
いのである。


このような設定の漫画(他の表現方法でも同様だが)で、一番難
しいのは「終わらせ方」である。
うる星やつらの場合は、終わらせる方法の一つとしてラブコメ
素を使った。29巻(オリジナルの単行本での巻:以下同様)以
降は終わらせるための伏線を張るために、一話完結ではなく、連
続した話が非常に多くなっている。


うる星やつらの後期(15巻以降)で多用している暴力的なギャ
グを交えながら、徐々に徐々に大団円へと読者を導いている。


そして最終巻(34巻)、最終ページの、この結末を描くために
この漫画が書かれたのではないかとすら思えるような、ラブスト
ーリーとしては最強のハッピーエンドへと向かっていくのである。


つまり、うる星やつらにおけるラブコメ要素というのは、終わら
せるための道具であったという言い方ができる。
誰もが終わったことを納得できる終わり方で、かつ終わった後の
展開を読者それぞれが想像する楽しみを残した終わり方である。
このドタバタギャグ漫画を、人気が落ちないうちに読者が納得す
る終わり方をさせる、この1点だけでも高橋留美子さんという漫
画家がものすごいポテンシャルを持っていることがわかるのであ
る。


ギャグ漫画の終わり方は物議を醸し出すことが多い。
最近ではかってに改蔵。この手があったかという終わり方ではあ
ったが、なんとも微妙な終わり方だった。かってに改蔵という漫
画が、作者の脳内世界で構築された漫画であることをことさら主
張する終了方法のような印象を持った。ただ、この漫画の価値を
上げる方法ではあると思う。これ以降の漫画家はもうこの終わり
方を選択することはできないであろう。
あの落ちは夢落ちとは違うのである。脳内世界で展開されていた
話だったという点では同じなのだが、翌日から漫画が始まる前の
日常が展開されるというものではない。
似ているのは都市伝説として語られるドラえもんの最終回の植物
人間バージョンだろうか?
いずれにせよ久米田康治さん以外には使えないだろうし、使う勇
気もわかない終了方法であろう。


話を戻すが、うる星やつらの終了で使われている方法は、ラブコ
メ要素だけではない。読者に時間の流れを意識させ、ラムちゃん
が成長することによってギャグ漫画の前提である記号性を失うと
いうことを最終巻の途中で示唆している。
そこでこの漫画の終了を予感した人は多いだろう。しかし、ぼく
はその時点でも、まさかあれほど強烈なラブコメとしてのハッピ
ーエンドを迎えるとは思わなかった。
記号性が失われることを示唆した上で、あの終了方法をとるとい
うことは、それがどのような内容であっても続編の展開を拒否し
ているという見方もできるのである。


今日の話で、ようやく見出しに書いている本編につながることを
書けたかなと思っている。
ぼくがあの漫画の構成を「高いハードル」と呼んでいる理由はそ
ういうことなのである。
具体的な話は11月にまた。




最後に。
ぼくがうる星やつらを気に入ったのは決して偶然ではない。この
漫画と出会う以前に激しく影響を受けた筒井康隆氏の世界が色濃
く感じられたことが大きな理由になっている。高橋留美子さんと
リアルな世代は違うのだが、同時代性を感じているのだ。
同時代性を感じるということは作品をプラス方向に誤って評価さ
せがちなので、フェアを期すために蛇足ではあるが記述する。

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2時間以上かかりました・・・
ぶっちゃけ俺には荷が重い作品だ。まっ、あえてそういうのを選
んでるってのはあるんだけど・・・
疲れたぁー