漫画という方法の可能性




メインの前に。。。って今日は前置き長すぎ!
2chで「漫画最萌トーナメント」なる物が開催されているらしいです。
まとめサイト
なんか、予選を勝ち抜かないと本戦に出れないと言う厳しい世界のようです(笑)
ハヤテのごとく!の登場人物では
マリアさん
桂ヒナギクさん
鷺ノ宮伊澄ちゃん
貴嶋サキさん
三千院ナギちゃん
の5人が本戦に出ています。今のところ勝ち抜いたのは伊澄ちゃんだけで、
人気があるらしいヒナギクさんは音無響子さんに敗れています。
やっぱファンの年齢層が高いんじゃないかと・・・で、初期の高橋留美子
作品とかぶっているんじゃないかと・・・


それはともかく、本戦出場のリスト見ても8割〜9割方わからん。こんな俺
には漫画を語る資格はないのかもね。


ではようやく本題。

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先週は「漫画という方法の限界」というサブタイトルで、雑誌掲載による発
表という現代の漫画のシステムの持つ構造的な制約について述べた。
今日は逆にその制約によって生み出される効果も含め、漫画という表現手段
が持つ可能性について述べていきたい。


前回の繰り返しだが、本来ならば可能性を述べてから限界を述べるのが筋で
ある。しかし「本物」から僕の考える「限界」に関連する文章が発表されて
いるので、順序を変えることにした。


さて、漫画という表現手段とは絵と文字による一種の総合芸術である。絵だ
けでも成立しないし、文字だけでも成立はしない。Hotwiredの記事にもある
ように、この手法は日本人にとっては中世からなじみ深いものである。
そして、それは動きのある絵、つまりアニメーションともまた異なる物であ
ると僕は感じている。
アニメーションにあって、漫画にない物、それは音声と動きである。その二
つがあることによって、鑑賞する人は想像力を働かせることなくその作品世
界に入っていくことができる。


逆にその二つがないことが、漫画という表現手段の可能性の一つである。読
者は漫画を読み、描かれていない部分を自らの頭で考え補完する。それによ
って人によって同じ物を読んでも違う感想を持つことができる。
もちろんアニメでも同様な事は起こる。しかし漫画の方が補完する余地が広
いのである。


小説など、文学作品には「行間を読む」という言葉があるが、漫画の場合も
「コマ間を読む」ことが可能なのである。しかも、読むペースは読者にゆだ
ねられている。眺めるように漫然と高速に読むことも可能であるし、鑑賞す
るように一こま一こまを味わい、ゆっくりと読むこともまた可能である。そ
して高速に読んだときの感想と、ゆっくり読んだときの感想が、同じ読者に
とっても違う物になることもありえるのだ。


今では大きく状況が変わったが、僕が子供の頃はテレビで放映されている物
は放映が全てであった。繰り返し味わうなどということはやりたくてもでき
なかったのである。今でも本当にアニメが好きな人は繰り返し鑑賞し、考え
るべきところで映像を止めて考え味わうという見方をしていると思うが、多
くの人は一度見てそれっきり、漫画で言えば眺めるように漫然と高速に見て
いるのである。そしてそれを味わうようにみたいと思ったときには、漫画の
単行本よりも高いコストを払わなければならない。漫画は鑑賞するためのハ
ードルが低い=多くの人が鑑賞することが可能な表現手段なのである。


漫画の基本的な構造であるコマ割についてもう一点繰り返しになるが指摘し
ておきたい。
めぞん一刻について書いた文章の中で述べた、オリジナル単行本11巻第1
話「閉じられた扉」の終盤の響子さんの表情の動きである。
きちんと読めば他にも同様の表現は多々あるとは思う。しかし僕にとっては
この表現には驚愕という言葉しか思いつかない。
「絵」という方法による感情の表現の最高峰なのではないか。しかもそれが
「コマ割」という独特な方法、そして断片的な「文字」と相まって、読者そ
れぞれがそれぞれの間で鑑賞することができる。
その「間」は、もちろん才能ある映像クリエーターにより、実写、アニメで
も再現可能であろう。ただ、実際には読者それぞれが感じている「間」は違
うのである。ある人は無言の時間が一瞬と感じているだろうし、別の人にと
っては数秒、あるいは数十秒としてとらえられる事が可能性があるだ。


これも繰り返しだが、この表現はおそらく漫画以外の方法では不可能なので
はないかと今でも思っている。
そして、この数ページを読んだことで、その後極々少数の作品だけではある
が、今も漫画を読み続けることになり、ついにあの作品に出会うことができ
たのである。




次に、先週漫画という表現手法の限界の要因としてとらえた、雑誌連載によ
る発表がもたらす効果について述べる。


別に僕が述べる必要もないことだが、連載漫画には2種類ある。一つは一話
完結型で、もう一つは連続する物語となっている漫画である。
雑誌連載という手法は、特に連続する物語の場合非常に効果的に使うことが
できる。話のクライマックスでその号での発表を終え、読者が次回の展開を
想像する楽しみを与えることができる。
連載でななくても、次のページをめくる楽しみというのは存在するが、その
次のページを自分の手によってめくることができない。次の発売までまたな
くてはならない。このことは、前に述べた眺めるように漫然と高速で漫画を
読んでいる人が、その漫画にいつの間にか取り込まれるようになるきっかけ
になることがある。


そして、実際にその次回を目にしたとき、読者の想像を超えるような展開が
なされていたとき、その作品に対する評価が高まっていくのである。
しかし、読者の想像に作者が追いつけなかったとき、あるいは読者の想像と
全く違う方向に行ってしまったとき、読者はその作品を見限り、離れて行っ
てしまう可能性がある。
この危険性は、特に、一定の評価と人気を得た作品の場合顕著になる。読者
の思い入れが強いほど、「裏切られた」と感じたときの離反も激しい物があ
ると自分の経験から想像している。
そして、その裏切りを繰り返すと(作者が意図的に繰り返すわけではなく、
読者が一方的に裏切られたと感じる事をさす)先週述べたように物語り途中
での打ち切りという残念な結末が訪れてしまうのである。


しかし、このプレッシャーをクリアして残っていく作者、作品は、必然的に
質が高い物となるはずだ。自分からみると、どこが面白いのかわからないよ
うな作品であっても、きっとツボにはまる層があり、彼ら、彼女らの期待に
答えている作品なのである。


連載での発表と言うことがもたらす効果としてもう一点挙げておく。それは
連載という形態での発表により、読者の成長と登場人物の成長、そして時の
流れとを重ね合わせることが可能になるのである。
読者は自分のリアルな生活と漫画の時間の流れを重ね合わせ、自分の経験を
ベースとしてその漫画を楽しむことができる。これは主に青年向け漫画に多
い展開と感じている。
もちろん、小説など他の表現手法でもこれは可能である。が、実際小説誌な
どは読まれていない。この方法で多くの人の共感を得るには、現実的に漫画
という表現手法しかないのである。


時間が止まった漫画というのもまた多数存在する。何年もの間、冬が来れば
冬のイベント、春が来れば桜、夏が来れば海、秋が来れば行楽・・・同じこ
とが繰り返される。
このような漫画の場合避けて通れないのは読者の入れ替えである。ある作品
はある年齢層をターゲットにしている事が多い。漫画の対象年齢を上げてい
くことも作者の力量によっては可能ではあるだろうが、多くの読者は年月を
経るとともに読む雑誌が変わっていく。なので、その雑誌を主に購入する層
を対象とするのが安全である。
読者は変わっていく。そしてその読者がバックボーンとしている時代的な要
因も変わっていく。さらに、当初から読んでいる熱心な読者には作品世界が
破綻していると感じさせないようにする必要がある。
時間が止まった漫画を続けることは非常に難しいが、それを続けることによ
って、これも他の表現手法では存在し得なかった作品が結果的に生まれるこ
とになるのである。

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えっと・・・ほんとはもう一項目書くつもりだったんだけど、いい加減疲れ
ました。次回に回します。
今回ながすぎだったような気がするのでたぶん次回は短くなると思われ・・
では深い衝撃でも味わうことにしますか。馬券買ってないけど。