第三日:既視感と違和感

                                                                                                                                  • -

今日は、まず前半にハヤテのごとく!の漫画としての要素のうち昨日触れなかったパロディについて分析する。また後半では、本論となる四日目以降に続く「仕掛け」の部分について書き綴っていく。
そして最後にその二つについてまとめる。今日までが今回の文章においては導入部分となる。最後は「引き」になってしまうがご容赦頂きたい。




さて、昨日述べたように、この漫画には「パロディ」という要素がある。
2005/10/27の日記でも述べたように、パロディというのは、その作品への愛である。畑健二郎さんは漫画やアニメやゲームが本当に好きなのだなということがよくわかる。
しかし、それだけではないのだ。


パロディを読んだ読者はどう思うだろうか。「ああ、この作者もあの漫画を読んでいるんだな」「あのゲームにはまっていたんだな」などという感想を持つであろう。その感想は、作者に読者が同時代性を感じていることに他ならない。この作者は自分と同じ時間を生きているという感覚を、パロディを使うことによって獲得しているのだ。


しかも、この作者はこの漫画の中で、現在進行中の、評価がまだ定まっていない漫画やアニメについてのパロディも使っている。まさに「同時代を生きている」と読者が感じることができる。だが、それは両刃の剣である。作者と読者の感覚がずれたとき、あるいはこの漫画が数年後に読まれたとき、この漫画の魅力の一つが失われてしまう危険をはらんでいる。今のところ、作者と読者の感覚に大きな「ずれ」は生じていないようである。むしろ、読者から見て「よくぞそのネタを使ってくれた」というような評価が得られていることが多いようである。そして、パロディの原典をほとんど知らない僕が読んでも普通に面白い物になっている。しかし、これからもこの手法を使う以上は、両刃の剣という側面が有ることを忘れてはならない。


この作者は、今の時代に発表されている原典だけをパロディにしているわけではない。プロフィールの作者の年齢を疑いたくなるような古い作品も多数パロディ化している。このことは、多様な世代と多様な環境の人にも同時代性を感じてもらいたいという意図なのではないかと考えている。そもそも漫画では、僕が読んでいた子供の頃からパロディが使われていた。原典となるものにさらに原典がある、そういう状況なのである。だからそもそもの原典は何なのかわからないような言葉や状況も多数ある。著作権についての考え方が変わって来ているので全く同じ手法というわけにはいかなくなってはいるが、人気獲得のためには漫画という表現方法の中では昔から使われてきた手法なのである。


パロディを見つけた読者は、はじめてハヤテのごとく!という漫画を読んでいるはずなのに「どこかで読んだ覚えがある」と感じることがある。
「既視感」である。
そして一つ気づくと、一度読んだだけでは気づかなかった所にもちょっと前に見た、あるいは今まさに見ている別の漫画やアニメのパロディがちりばめられている事にさらに気づく。その効果によっても読者を多数獲得しているのである。


もう一つ、この漫画のパロディには「異化」という効果もある。当たり前のことを、漫画、アニメ、ゲーム文化の言葉を使い説明することによって、その世界を知らない読者に新鮮な物のように感じさせる効果である。現在の読者の多くはその文化的背景を共有しているのでまだ大きな効果は出ていないであろうが、今後この効果は意外と大きな意味を持つと考えている。


少し毛色の変わった話になるが、「既視感」という枠組みでとらえたいテーマがもう一つある。それは、高橋留美子さんの作品、特に初期の「うる星やつら」や「めぞん一刻」との共通点である。
これについては僕も過去の日記の中で取り上げてきた。

結局の所、今の僕では、雰囲気、テンポ、ノリ、においなどの主観的かつ説明に適さない言葉でしか語ることができない。でもどことなく共通点はある。そういう感覚なのである。これについては別の言葉で説明できるようになればまた書いてみたい。
しかし、高橋留美子さんの作品との間に何かしらの共通点があるという感覚は十日目に論じることの一つの鍵になるので、触れることにした。


昨日書いたことの繰り返しになるが、この漫画は狭い間口をたくさん用意している。そしてパロディという手法にもそれが言える。この作者が使うパロディは、評価が定まっている物に限らない。極々一部の好事家しかわからないような原典も多数使用しているようだ。この作品でのパロディという入り口の間口は萌えやギャグとは比較にならないほど狭いと思われる。狭い間口をたくさん作ると結果として広い間口になる。しかし、その狭い間口の中でも、さらに極端に狭い所にぴたりとはまった人たちは、この作者により共感を覚え、この漫画により深く愛着を感じるのである。
わかっている人にしかわからない。わかった人にとっては、これがわかる人間はそれほどいないというある種の優越感を感じさせる。そしてこれを書いた人間はきっと自分と同じ種類の人間であると思わせる。そういう気持ちになった読者はこの漫画に対しての思い入れが深まっていく。そういう効果があるのだ。




話題を変えよう。


この漫画を読んでいると、すんなりと読めないところがいくつも出てくる。


例えば二日目にも述べた、賛否両論がありそうな、強烈なインパクトをもつ最初のエピソードである。主人公であるハヤテ君は、なぜここまで、救いようがないくらい悲惨な状況だったのか。萌えとギャグとラブコメが基本要素なのだから、そこまで悲惨な状況は必要なないのではないかという疑問がわいてくる。


次に、二巻で提起され、現在も話の骨格の一部を占めている三千院家の遺産の話である。それまでの話の流れからは全く異質といっても良い展開である。この話は、第十三話(二巻四話)から始まっている。僕は週刊連載時にこの一連の話を読んだ記憶が全くない。小説、漫画の区別無く、生来読むことは好きなので、買った物に書いてあることは、好きだろうが嫌いだろうが、興味があろうが無かろうが全て一通りは読んでいるはずなのだが、こういう話題の展開があることにすら気づいていなかった。単行本を買わずに週刊誌で一話一話を読んでいるだけでは、おそらく今後も思い出すことは無かったであろう。他の話から見ると浮いているのである。


三つ目は、遺産の話とも絡んでくるが、登場人物のお金への執着である。例えば第十四話(二巻五話)で、主人公のハヤテ君の頭の中には戦いのさなかに「お金」という言葉が三回も浮かぶという様が描かれている。「お金」という言葉が無くても、前後のつながりで読者に想像させることは可能なようにも思える。しかし作者は「お金」という「言葉」を、萌え、ギャグ、ラブコメにはあまりそぐわないような「言葉」を持ち出している。これはいったいどういうことなのだろうか。


四つ目が楽屋落ちである。その中でも、特に漫画の性格を限定する登場人物の言動である。何度も繰り返して述べているが、読み始めたときにこの漫画の性格を、萌え、ギャグ、ラブコメと定義していた僕にとって、登場人物になぜこの漫画の方向性を限定するような発言をさせる必要なのか疑問に覚えた。漫画なのだから、読者の反応によって方向性を変えることは別に恥ずかしいことではない。むしろその流れをいかに捕まえるか、いかに自作に生かしていくかが大事なのではないかと常々考えていたので、意外な言葉であった。この方向性を限定する言葉があったのは、連載中に読んだことを覚えている。このことについては六日目に詳細に触れる。


最後にもう一点だけ性格が違う「ひっかかり」を指摘しておく。それは、読み切り版に書かれていたという「ときメモファンド」の一件である。この台詞は覚えていた。2004年の初頭に発表されたらしい。一年以上経っても覚えていると言うことはインパクトがある台詞だったのだろう。
しかし、この台詞は不評を買い、週刊少年サンデー本誌に謝罪文が載る事態になったとのことだ。この件も、僕の論旨のポイントとなるので、四日目に詳細に解説する。


ここでは五つ例を挙げた。これ以外にも読んでいて「違和感」を感じる箇所がある。その「違和感」を覚えさせるという所がこの漫画の大きな特徴である。この違和感は作者が意図した物なのか。あるいは失礼な物言いをさせてもらえば、作者の構成がまだ稚拙なために発生した物なのか。それは僕にはわからない。




さて、いよいよこれからハヤテのごとく!に隠された仕掛けについて述べていくことになる。


前述した「既視感」、そして今述べた「違和感」。その二つにはある共通した効果があるのだ。


それは、「読者が繰り返し読む」という効果である。


パロディを見つけた読者は、それまで読んだところで読み落としたところはないか、一読しただけでは気づかないような小さなネタは落ちていないか探すであろう。そして見つけると小さな喜びを感じるであろう。また、違和感を覚えた読者は、違和感の正体を探るべく、あるいは読み飛ばした所があるのではないかと不審に思いつつ、改めてその漫画を読むことになる。
結果的に一度だけ消費する読者以外に、何度も繰り返し読み込む読者を増やす効果が得られるのだ。


みなさんはこんな経験はないだろうか。たとえば喫茶店で、友人の家で、ラジオで、繰り返し流される音楽があったとする。そのうちいつの間にかその音楽を口ずさんでいる自分に気づき、いつの間にかその曲が好きになっている。それと同じ事が漫画やアニメや小説にも言える。何度も繰り返し読むことによって、その読者はその対象が好きになってしまうことがあるのだ。読み込むという意識が無く、ただ繰り返し読んでいるだけでも気がつくと好きになってしまうのである。
もし、作者の畑健二郎さんやこの漫画のスタッフが、意識的に既視感と違和感をハヤテのごとく!の中で使っているとしたら脱帽するとしか言いようがない。ベテランの編集、出版サイドの担当者が指示をしてもそう簡単にできる物ではないはずだ。とても新人漫画家の作品とは思えない。
ただ、僕はハヤテのごとく!という漫画にこの仕掛けが施されているのは偶然なのではないかと考えている。たまたま作者が好きな物、やりたいことにたまたま想定外の効果があるのではないかと考えている。




僕はこの漫画のしかけた罠にはまり、ハヤテのごとく!を繰り返し、繰り返し読んでしまった。今思うと読まなかった方が幸せだったかもしれないと思う。
単行本を買い、繰り返し読んでしまったことによって、この漫画の持つ、一読しただけでは全く想像もできない、外見からはまるで予想もつかないような物語として一面に気づいてしまった。そして、「物語の消費者」である僕が本能的に感じた違和感こそがこの漫画の真の姿を知る手がかりである事を知り、そこにこの漫画の恐ろしいまでのポテンシャルが隠されていること感じ取ってしまったのだ。

                                                                                                                                  • -

つづく