物語の印象の正体

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今まで僕はいくつかの物語を取り上げてきた。その中には厳密には物語とは言えない物も合ったように思う。そもそも僕にとってその作品を物語と判断する材料は何なのか。それについてこれから2回書いてこの一連の文章を終えることにする。


ある本を読み、ある感想を持つ。そしてそれを言葉にする。それが読書感想文だ。学校の課題で出される読書感想文への対応の場合は、僕はよく対象となる作品の一部分だけを取り上げて書いていた。それはそれで一応読書感想文の形になる。でも、本当に気に入った作品に出会ってしまったとき、感想文を書けないと言う経験をした覚えがある。それがどの作品だったのか未だに覚えていない。
それは僕の場合国語のテストでも経験したことがある。出題に使われた文章に反感を感じたとき、逆に感動したときには点数が取れないのだ。答えなんて書いている場合ではないという気持ちになってしまう。大学受験のあたりになると難解で感動するような要素がない、あえて断言すると文章としては良くない物が題材に出されるので問題はない。しかし、高校入試レベルだと本当にいい文章が題材になってしまうので困った。
今回、僕は好きな物を言葉にするという今まであまり経験したことがない作業をした。その結果わかったことがある。


それは読了感である。


文章の長い短いに関係ない。フィクションであるか自然科学の新書であるのかも関係がない。読み終わったときに感じる感覚が全てなのだ。フィクション(虚構)であればすきっとした感じ、あるいは何とも言えぬ後味の悪さがそれであるし、新書系であれば知識欲が満たされたことを感じられているかどうかがそれである。
今回は物語論と言うことで文章を書き進めているのでフィクションだけに限ろう。


読み終わったあと爽快な気分になる。それが自分が好きな物語の一つのパターンだ。特に推理小説の場合顕著である。提示されていた謎が全て解決し予定調和の終焉を迎える。その物語に登場した人々は、また日常に戻っていく。その感覚が僕は大好きだ。
もちろんシリーズ物の場合は探偵役はまたすぐに次の事件に遭遇してしまうのであるが、その一編の物語に限って言えば、事件が終われば物語はほとんどの場合完結する。推理小説というのは終わりがわかりやすい物語なのだ。物語の消費者にとっては非常にありがたいシステムである。


しかし、印象に残る物語というのはそれとは違う。何とも言えぬ歯切れの悪さ、言葉を換えれば後味の悪さ、やりきれなさを感じるのである。推理小説でいえば名作といわれている「Yの悲劇 (創元推理文庫 104-2)」が顕著だ。どうにもならない救いのなさが残ってしまうのだ。だから初めて読んでから20年以上経った今でもはっきりとその衝撃を覚えている。予定調和では本当の感動は残念ながら生まれない。
めでたしめでたしで終わる物語。それはそれで一つの様式美がある。本来物語はそうあるべきであるとも思う。でもそれを崩すことによって印象深い物語を創造することが出来るのではないかと感じている。
なぜここで終わってしまうのか。なぜ後日談を書かないのか。そういう思いを読者に抱かせる仕掛けも今まで出会ってきた印象的な物語には欠かせない物になっている。

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意外と短かったな。文字数数えるの怖いけど・・・