物語の正体

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり






約2ヶ月に渡り物語という物について自分なりの考えを書いてみた。そもそも結論を用意して書き始めたわけではなく、自分の考えを整理するための道具として文章を残しておこうと考えていた。
しかし、思いがけず一つの結論に至ることが出来たので、最後にそれを述べて連載を終えることにする。


今までに読んだ物語で印象深い物に何らかの共通点があるのではないかと考えてみた。すると一つの結論が見つかった。

  • 時の流れを意識させる物語は印象に残る

小説などで描かれるのは、ある時代のある人、あるいはあるグループの物語である。しかしそこに至る物語、そして終わったあとの物語をほのめかすことによって深みが増すのだ。それはいったいなぜなのか。


人間は、おそらく無意識のうちに「時間」というものをコントロールできないことを知っている。だから時間をコントロール出来るものに「ロマン」を感じる。それは漫画でも小説でも、さらには相対性理論にも言えることだ。コントロールできない物がコントロールされている、あるいはできるようになるのではないか、そういう期待を持っているのだ。
創作物上での「神」は作者である。「神」は人間ではない。「神」は通常はコントロールできないはずの時間もコントロール可能である。同じ一日を繰り返すこともできる。うる星やつらビューティフルドリーマーasin:B00006C1W0)が非常に良い例だ。うる星やつら原作の世界観とは大きく違っているが、この物語もロマンにもロマンを感じる。コントロールできないはずの時間がコントロールされているからだ。


しかし、本当に感動するのはコントロールされた時間にではないのだ。時間はコントロールできないというその当たり前の事実を淡々と描く、実はそういう単純な物語に大きな感銘を受けるのである。もちろん過去に起こった事実を作中で述べることもある。時間を飛び越える登場人物が存在することもある。しかし、時間をコントロールすることが主題ではなく、そのことにより時間を後戻りすることは出来ない、早送りすることはできないということを間接的に描くことによって、読者にたまらない切なさを与える事が可能になるのだ。




冒頭に書いた平家物語の一節。これは仏教の世界観が原典である。しかし、この短い言葉に人生の本質はもちろん、物語の本質も語り尽くされているのではないだろうか。諸行無常、その当たり前の事実に人は支配されている。支配されているからこそ感動し涙することが出来るのある。

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おわり


なんかまとまりないですねぇ・・・
ふと思ったんだけど、俺の場合は鬱状態の方が文章書けるのかも。普段はものすごく集中力が散漫でこれかく最中も何度も他のことやったりしているんだよね。仕事中もそう。集中しているのは5分とか10分とかの短い単位。集中しているときに他の人の何倍かのことは出来ると自負しているけど、トータルで見ると別に効率がいいわけでは無いと思われ。。。小学生の頃から怒られていた。でもなおんないんだよなぁ・・・だから論旨がうまく組み立てられない。
鬱状態の時は反対に一つのことをずっと考えていることが出来ていたような気がする。でも本人それが出来ているとは思ってないからなぁ。もしかすると仕事で作ったプログラムもあの期間の方が作りが丁寧かも。戻りたくはないけれどなんかびみょーな感じ(笑)
文章力が落ちていないことを祈る今日この頃です・・・