:交錯



さて、まずあの十日間に書いたことの訂正を書いておこう。大きな訂正だ。


前回の文章の中では四日目に始まり何度も「ハヤテのごとく!という物語の幹は綾崎ハヤテ君という少年と、三千院ナギちゃんという女の子の成長にある」と書いた。それは完全な誤りであったとは思っていない。しかし今は訂正をしなければならないと感じている。


ハヤテのごとく!という物語の太い幹の一本は綾崎ハヤテ君という少年と、三千院ナギちゃんという女の子の成長にある」


ハヤテ君とナギちゃんの成長がこの物語の幹であることには変わりはない。しかし、追加した言葉「太い」と「一本」がこの物語の大きな特徴の一つなのだ。幹は一本ではないのだ。幹が、それも太い幹が何本もある。その中の何本かはうまく展開をすれば長編の漫画一本をモノに出来るだけの物語性を備えているのだ。
今現在提示されている物語の要素を挙げてみよう。

  • ハヤテ君を中心として

・ハヤテ君の成長物語
・ハヤテ君の借金返済物語
・ハヤテ君がナギちゃんを守り切る物語

  • ナギちゃんを中心として

・ナギちゃんの成長物語
・ナギちゃんの恋物語

  • 西沢さんを中心として

・西沢さんの恋物語

  • ワタルくんを中心として

・ワタルくんの成長物語
・ワタルくんの恋物語

  • 伊澄ちゃんを中心として

・伊澄ちゃんの恋物語


主要登場人物それぞれについての成長物語という側面がすでに提示されている。この作品では登場人物のほとんど全員が現状に満足していない。作中で変化し、成長していくことを望んでいる。そしてそれぞれの成長物語がこの作品の幹になりうるのだ。
物語要素としては他にも予想される物は存在する。ヒナギクさんを中心とした物語や、主要登場人物であるマリアさんを中心とした物語も展開されていくのではないかと考えている。そして、ここに挙げたうちいくつかは、おそらくそれを幹とするだけで長編漫画を構成できる物語になりうるのである。
さらに、毛色が違うので他とは同列には述べることが出来ないが、ハヤテのごとく!以前の桂姉妹の物語があることも作者から提示されている。さらにナギちゃんとタマの出逢い、マリアさんの出自、ナギちゃんの過去、登場人物それぞれの過去など、おそらくは両手に余る要素がこの作品の中には内包されている。それは決して珍しいことではないとは思う。しかし、本編の中で、同じ時間の中で数多くの要素が絡み合って進んでいく作品は珍しいのではないか。しかもそれを必要以上に読者に意識させないように、言葉を換えると漫画として成立するように進めていかなければならないのである。


桂姉妹の物語について少し書いてみよう。時間軸がずれているので、基本的にはハヤテのごとく!という作品の中の他の要素と影響を与え合うことはない。しかし、登場人物の基本的な成り立ちが描かれるはずだ。
四巻で明かされた設定を見る限り、やりようによってはそれだけで一年から数年の漫画連載に十分耐えられると思われる。そして、僕を含めた多数の読者が、このまだ見ぬ物語が発表される事を望んでいる。しかし、この物語はハヤテのごとく!という作品の幹としてではなく「外伝」的な扱いで語られると思われるのだ。


そう、ハヤテのごとく!という作品の中では「桂姉妹の物語」的な複数の物語、しかもそれぞれが別の作品として存在しうるような重厚な設定の物語が交錯し、影響を与えながら進んでいくと僕は考えている。幹は一本ではないのだ。そのあらかじめ用意されている複数の幹から、物語中盤あるいは終盤で柱となってくる本筋が見えてくるのか。僕は最後まで複数の幹が絡み合い、一本の幹だけが最終的に残るという構造ではないのではないかと考えている。
このような試みはほとんどの場合どこかに無理を来たし矛盾が生じてしまう。しかしこの物語はおそらくはそうはならない。そのための手法が「ゲーム」であり、その手法があるから僕はその大きなハードルを越えてこの物語が想い描いている形で完成しうると信じている。
読者である僕らは畑健二郎さんがプレイしているゲームを後ろから見ているのだ。プレイヤーに後ろからアドバイスをすることは出来る。しかしどういうコマンドを入力し、どの選択をするかは最終的にはプレイヤーに委ねられている。しかも、ハヤテのごとく!という作品の場合は、畑健二郎さんはプレイヤーであると同時にクリエイターでもある。自ら紡ぎ出したシナリオのゲームをプレイしているのだ。後ろから見ている僕らのアドバイスによって、シナリオの細部や選択するコマンドの一部は当初予定から修正されて行くであろう。しかし、このゲームの大筋はすでにできあがっている。僕らが口を出し変更される可能性は限りなく小さい。




四巻以降ハヤテのごとく!の物語としての自己主張は急速に強まっている。一話、あるいは数話完結のエピソードであるにもかかわらず、細かいイベントもあとの話に生かされているのである。改めて一巻から読み返してみる。今までは物語の展開には無駄と思っていた各話にもそれぞれに隠された意味があることに気づくこともある。ある話でのある一コマが不自然と感じられないようにするためにまるまる一話を使っているという配慮を感じることもある。登場人物同士の関係が微妙に変化していることを読者に伝えるために一話、あるいはそれ以上のページを使うこともある。そしてその「説明」のための一話もそれはそれで完結した話となっている。
一話一話それぞれの密度が高く、異様なまでに精密なのである。これは週刊連載の漫画という特殊な発表形態で最大限に効果を発揮している。


今のところ、新しい形の物語を生み出すという畑健二郎さんの試みは成功していると言っていいであろう。発行部数を見る限り商業的にはある程度は認められている。しかし、本来のこの作品の市場は別の所にあるのではないかと感じている。
消費するだけの物語に飽き足らない読者、既存のフィクションでは感動することが出来なくなってしまった読者。そういう読者がこの作品の存在を知ることによって、今はまだ想像もできないような、より幅広い読者層に浸透していくはずだ。僕は今のハヤテのごとく!はまだまだ大ブレイクには至っていないと思っている。漫画を読む習慣を持たない読者層にはほとんど知られていないからだ。その新しい読者層をつかむまでには少なくともあと一年半、初めてこのことを書いたのはおよそ半年前なので二年から半年分短くなった、かかると思われる。


蛇足ではあるが、ぷらずまだっしゅ!を始め、多くのサイトで指摘されている四巻での大きな修正点について触れておきたい。暫定最終回での伊澄ちゃんの言動についてである。
あの変更は

  • 読者からの感想、ファンレターなどを見て、伝えたいことが伝わっていないことに気づいた。そしてそれが伝わらないと今後の物語展開に無理が生じる。-タマのケースとは反対に、描き終わってから設定を微妙に変えた方が話を進めやすいことに気がついた。

週刊連載の各話でも非常に精密に組み上げる作者である。真相は全く別の所にあるのかもしれない。そもそも単行本で修正するところまで見通して雑誌掲載原稿を書いている可能性すらあると思っている。しかし、現時点ではこの二つが修正の要因として考えられる。




さて、複数の幹という話に関連して気づいたことがある。2chなどを見るとこの漫画各話の評価が大きくぶれている読者の方が多いようである。それはこの物語の構成を考えればあたりまえのことだと感じている。ハヤテのごとく!というタイトルは同じでも、実は複数の物語が同時に進んでいる作品なのだ。読者によって好きな種類の物語は当然違う。ある読者の嗜好に合う話もあれば、別の読者の嗜好に合う話もある。例えばラブコメ要素を中心とした話には興味を持たない読者もいれば、逆にラブコメ要素がない話は切って捨てる読者もいるのだ。
畑健二郎さんとしては複数の物語が同時進行で進んでいることを読者に悟られないようにしたいのだと思う。毎回毎回全ての読者に、それぞれの切り口で楽しんで読んでもらいたい、そういう思いで描いていると思う。


それに関連して、ここで、主に三日目に書いたパロディが持つ効果について訂正をしたい。
前回は、

  • 読者との「同時代性」を強調する。
  • 作品を読み返すきっかけとする。
  • パロディの原典を知らない人に対して「異化」の効果を与える

の三点を指摘した。
今回はもう一点

を追加したい。
この作品は、一つの世界観の中で構成するのが難しい複数の物語要素を内包している。だが、作品としての統一感がないと読者は離れていってしまう。物語中盤から終盤になれば、物語要素がそれぞれ絡み合い分けて表現することはできないということが作品を読むだけで読者にわかるようになると思われるが、序盤の「仕込み」の段階でそれを読みとってもらうことは難しい。
畑健二郎さんが意図したことかはわからないが、パロディはこの作品が一つの統合された形で成立していることに大きく貢献をしている。


しかし、全ての読者が毎回満足するということは、そのような工夫をしてあっても、いかに漫画家としての力量が上がったとしても不可能に近い困難な作業と言わざるを得ない。あまりにも違う話が一つの作品の中で同時に進行しているのだ。どの物語をその回の中心に据えるか。それによって読者の評価が大きく変わることはある意味やむを得ないと感じている。
そして、複数の物語を同時進行で描くという作業を行っている以上、作中での時の流れは勢い遅くならざるを得ない。逆に、そのさまざまな幹を根幹として持つ細かなエピソードを、ゆっくりと、しかし確実に描くことによって時の流れを表現すると言うことがこの作品の大きな狙いでなないかと感じている。


話題を変えよう。


七日目に、主人公であるハヤテ君とヒロインであるナギちゃんを中心とした視点でのこの作品の終了条件を列挙した。ハヤテのごとく!には、それとは別に先ほど述べたそれぞれの登場人物の物語の終了条件も存在する。この作品は終了条件が非常に多く用意されている作品である。しかしここで特筆すべき事項がある。この作品には終了の必要条件は多数存在するが、今のところ物語を終わらせる「十分条件」が表面上存在しないのだ。
あるイベントをクリアすればその作品は終わらせざるを得なくなる、漫画の人気が出た場合、その終了条件が成立させるのを遅らせたり、クリアした先に別の終了条件を設定したりする。それが週刊連載のストーリー漫画というメディアが持つ大きな特徴の一つであると思う。しかし、ハヤテのごとく!の場合、明確な終了十分条件が実は存在しない。この作品が強烈な物語性を包含しているにも関わらず、続けようと思えばいつまでも続けられるような構成になっているのである。そう、まるでギャグ漫画のように。


おそらく、物語中盤から終盤に入ると、ある登場人物の物語の終了条件が満たされることによって新たなイベントが発生し、それによって他の登場人物の物語に影響を与えるのではないかと僕は想像している。そしてその終了条件をクリアした登場人物も、決してこの作品から退場をするのではなく、それによって生まれた別の登場人物の変化を原因として、その登場人物にとっての新たな終了条件が生まれ物語が始まるような展開が用意されていると思われる。
五巻までの範囲からは多少逸脱するが例を出そう。この作品が短期連載の場合伊澄ちゃんは三巻後半から四巻冒頭までの「暫定最終回」をクリアした後には、ハヤテのごとく!という作品から退場、あるいは登場する機会が極端に減るはずなのである。しかし実際には僕が考える伊澄ちゃんの重要度は、今現在むしろ高まっている。
終了条件を多数用意していることが理由となって、この作品は読者から見ていつ連載が終了してもおかしくない作品に見える。この先の展開によっては、ある読者から見ると本来ならば終了した作品をいつまでもだらだらと続けているように見えるかもしれない。そう思われてしまうのはやむを得ないような構成になっているが、この作品の完成のために畑健二郎さんはその問題を乗り越えなければならないのだ。
僕は連載開始前からその問題は意識していたと感じている。なぜなら、ご本人が「暫定最終回」という言葉を何度も使っているからだ。連載が続いているにもかかわらず、あらかじめ用意されている、僕があと十種類以上はあらかじめ用意されていると想像している「暫定最終回」を実際に本編で描くからには、その後の物語が読者から見ると単なる引き延ばしと思われてしまう可能性は認識しているであろう。むしろ意図的にこのような方法をとっているかのように思われてしかたがない。長編であるにもかかわらず、頻繁に最終回を迎える作品。どこで終わっても不自然ではない作品。畑さんが当初繰り返し述べていた打ち切りの恐怖、打ち切られた場合も自然に終わらせたいという思いはもちろんあるだろう。しかし僕はその手法をテレビアニメ的であると感じる。時間枠、視聴率、スポンサーの都合で漫画よりもさらに短いスパンでの完結をさせなければならないテレビアニメ。パロディ、ちょっとした毒など、テレビ放映には向いていない要素を多数持っている作品なので実際にアニメ化されるかは微妙であるが、構成上は非常にアニメ化しやすくなっている。
僕が涙したWebサンデー サンデーまんが家バックステージ畑健二郎 Vol.49を読み返して頂くまでもなく、畑健二郎さんは漫画をたくさん読み、アニメをたくさん見て、ゲームをたくさんプレイしている。それらの経験を元にしてあえてこういう手法を取っている。今描いているハヤテのごとく!という作品を完成させることがいかに難しいことかは、読者である僕よりもはるかにわかっているはずなのだ。


もう一度話題を変える。


五日目に、この物語の中に「ナギの世界」「歩の世界」「ヒナギクの世界」の三つが用意されているのではないかと書いた。今では「ヒナギクの世界」の存在は多少怪しくなってきたと感じている。
それとは別に、今はまだ存在しない、もう一つ別の世界が用意されているのではないか、その世界を構築することがこの作品中の一つの「目的」なのではないかという着想を最近になって持った。その世界の存在についてはまだ何も証拠がない。単なる妄想、アイディアである。だから今それを言葉にして書くことはしない。ただ、その世界の存在を前提にするとこの物語の構成がしっくりくるのだ。それは物語終了の必要条件になる可能性を持っている。しかし「世界」というのはあくまでも概念的な物なので、僕が着想を得たもう一つの世界が用意されているとしても読者がそれを意識し物語終了のタイミングを計る材料にすることは不可能なのではないかと考えている。


表面上は存在しない物語終了の十分条件。表面上と書いたのは実は裏でそれが存在していると考えているからだ。これも七日目に書いたことだ。日付である。最近はやりのフィクションで限られた時間というテーマを持つ作品がある。ハヤテのごとく!の場合、今現在はそのことを読者に意識させないようにしているが、おそらくは終盤になってくると読者はいやでも時間という「壁」を明確に意識付けされるようになると思う。そして、それを意識した瞬間にこの作品はまた新しい別の価値が生まれる。時間を意識してもう一度最初から読み返すと、今まで読み落としてきた物語として重要な事象があからさまに見えるようになるはずだ。




なぜ、ここまでしてハヤテのごとく!という作品で複数の物語を描こうとしているのか。それはその全ての物語が絡みあって初めて、ハヤテのごとく!という作品での畑健二郎さんが想い描いているトゥルーエンドが現実の物になるからである。
なぜこれほどまで日付にこだわるのか。登場人物に作中で与えられた時間は決して短くはないが長くもない。その与えられた数年間の間に少年少女、男の子女の子がどのような時間を過ごし、それによってどう成長して行くのか、それを余すところなく描かない限りトゥルーエンドには到達できない。
ハヤテのごとく!は恐ろしく複雑で恐ろしく緻密な物語なのである。


この作品を貫くテーマの一つとして「主人公、ヒロインの成長」があることには間違いがない。しかし、それが全てではない。それも含めた様々な要素がトゥルーエンドには必要不可欠なのである。






あの十日間から二ヶ月が過ぎた。そしてこの作品との出逢いから五ヶ月が過ぎた。
この二ヶ月で改めてわかったことがある。


僕はハヤテのごとく!という作品の「物語性」という一点に絞り、分析し、そこを突破しようともがいている。しかし、どうもこの作品の持つ「すごみ」を伝えることはそれだけではできないようなのだ。一生懸命既存の言葉で説明しようとしても説明しきれないようなもどかしさを感じるのだ。なにか今までにない全く新しい物、それを物語という既成の言葉でひとくくりにしてよいかどうかさえわからないようなもの、が生まれようとしている。しかしそれを表現する言葉が僕には見つけられない。そのような状況なのだ。


僕はまだこの作品、作者について何も分かっちゃいない。まだまだ表面的で自分が気づいた部分だけを取り上げて感想を述べるにとどまっていると痛切に感じている。


この日記の中でハヤテのごとく!以外の作品についてもいくつか取り上げてきた。そしてふと気づいたことがある。ハヤテのごとく!の感想を書く場合には、僕は「面白い」という言葉をあまり使っていない。おそらく僕はハヤテのごとく!という作品のことを「面白い」とは思っていないのだ。個々のギャグや設定に面白さを感じることはある。しかし作品全体としては決して面白いとは思っていない。本来ターゲットではない一読者の感じていることとはいえ、作者の畑健二郎さんにとってははなはだ不本意な事だと思う。しかしそれは僕にとっての「真実」だ。「事実」ではないが「真実」なのだ。なぜそれほど「面白くない」この作品にこれほどまでにこだわるのか。それは「すごい」と感じるからだ。


過去にたった一度だけ同じような経験をしたことがある。僕が多大な影響を受けた筒井康隆作品に出会ったときのことだ。
自分の行動を振り返り、筒井康隆氏、いや、筒井康隆氏の作中登場人物の影響を受けているなと感じることが非常に多い。もしかすると影響を受けているのではなく、元々の僕の性格なのかもしれないが、その区別がつかなくなっている。
しかし、なぜ筒井康隆氏の作品に影響を受けてしまったのか、それは未だに分からないのである。そして筒井作品のいったいどこが面白いのか、どこがすごいのか、それも言葉では説明できないのだ。友人に「いったいどこが面白いんだ」と聞かれて答えることはできない。「面白くない」と言われても反論ができない。
筒井作品は「狂気」という言葉で説明されていることが多々あるが、おそらくはそれだけではない。狂気だけでこれだけ多くの人に影響を与え続け、その影響を受けた創作者からさらに影響を受ける人まで生み出す、そのパワーは説明できないように思う。
それと同じような感覚を僕はハヤテのごとく!から感じている。友人にこの作品を説明するとしたら、一巻冒頭から順を追って話していくことしかできないのだ。ハムスターのネタは確かに面白かった。でもそれはハヤテのごとく!の本質的なすごさとは離れた所にある面白さである。ハヤテのごとく!との出逢いは僕にとっては筒井康隆作品との出逢い以来の衝撃である。数十年に一度経験できるかどうかの衝撃である。そして、僕の一生の中で最後となる確率が高い衝撃である。
筒井康隆氏の作品と出会ってから約二十年が過ぎた。高校生だったあの頃より多少は語彙も増え多様な表現もできるようになっていると自分では信じたい。その自分を試すためにも、これからもハヤテのごとく!について自分の考えを書いていこうと思う。


このハヤテのごとく!という作品には、今まで僕が読んできたフィクションとは違う「何か」がある。それは間違いない。そしてそれは僕だけではなく誰もが未だ経験していない「何か」なのではないかと思っている。だから評価することも評論することもできなくて当たり前なのである。表現する言葉を作ることから始めなければならないのだから。
週刊少年サンデーを代表する作品、漫画を読む習慣を持たない人にとっての漫画という表現手法を代表する作品というチェックポイントを通過して、「日本を代表する作品」になるような気がしてならないのだ。そして、そうなった暁には、この作品を入り口として、今はまだ「サブカルチャー」「オタク文化」としてひとくくりにされている中で生まれているすばらしい作品群が世の中で再評価されるようになるはずだ。


ただ、そうなることが作品、作者、そしてそれを愛する人々にとって幸せなことなのか。
それはわからない。




今回は、主に七日目を少しだけ掘り下げて何とかしてこの作品の本質を伝えようと努力してみた。次回、六巻発売時にはもう少し細かい枝葉の部分について書いてみようかと思っている。そして、もしかすると作者畑健二郎さんについて、あまりに主観的なので今はまだ書けない決定的なある言葉を書くかもしれない。

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