二回目:「名無しさん」という集合意識

前回は私がなぜ2ちゃんねるという怪しげなサイトを知ったのかということを中心に書いた。今回から2ちゃんねるというものを私がどうとらえているかというところに入っていく。


はじめてあのサイトを見たとき、一番面食らったのは大量の「名無しさん」による書き込みだった。今その話を書くとネタと思われるかも知れない。しかし当時の私にとっては「名無しさん」という、「ハンドル」が、書き込んだとき名前を入れなかった場合のデフォルトだとは一瞬わからなかったのだ。さらに、当時は今より固定ハンドルを使う方が多かったように思う。だから「名無しさん」という固定ハンドルの人がいるような錯覚を感じたのだ。
「名無しさん」というある特定の個人がいろいろな矛盾する意見を書き込んでいる。そういう錯覚を感じる。


その後、事態を把握するわけだが、把握してからは逆に「固定ハンドル」で書く人の気持ちがわからなくなった。当時の2ちゃんねるはIDの表示はなかった。さらにキャップやトリップも実装されていなかった。私が知る限りでは「フィーネ萌えー」というコテハンを使っている方だけが自分自身が書き込みしているを証明できる手段を持っていた。
固定ハンドルを持っていても自分が書いたことを証明できないのである。これは実は匿名掲示板の欠陥であると同時に大きなメリットでもある。
どんなに罵倒されようと別人になれるのである。


2ちゃんねるでは、あまり面白くない書き込みに対して「半年ROMってから書け」という言葉が使われることがある。しかしよく考えてみるとこの言葉には大きな矛盾がある。半年ROMってから書いたところで、修行を積んだ人かどうか見分けるすべはないのだ。半年ROMっても「半年ROMれ」と罵倒される人もいれば、初めての書き込みでスレ住民の心をつかむ人もいる。誰が書いているかではなく純粋に書き込み内容が評価される世界なのである。他の人が簡単に「なりすまし」をできる環境の中で、なぜわざわざ固定ハンドルを使うのか私は理解できなかった。そして今でも実は理解できていない。


2ちゃんねる以前の話に戻ろう。
仕事上の必要でNiftyには入っていた。メールよりも技術的な問題が発生したときの解決方法を得るために使っていた。しかし、フォーラムに書き込んだのは確か一度だけだ。当時のNiftyのフォーラム(その後ステーションも設置されたが)には膨大な情報が存在した。ほとんどの問題は過去ログを見れば解決したので、わざわざ自分で書き込みをする必要を感じることはなかったのだ。
とはいえ、仕事で使うのフォーラム以外にも、魅力的な趣味系のフォーラムも多数ある。今こうして公開日記を書いているくらいだから、そういうところに書き込んでもおかしくはない。でも、どうも居心地がわるかった。
パソコン通信文化はその頃完全に定着していた。そして、それぞれのフォーラムには独特の雰囲気があった。それになじめないのだ。Niftyでは書き込んだ人のIDが表示される。どうしても仲が良くなった人たちの間での「馴れ合い」が発生する。この人はOFF会でもあったことがあるああいう人だから・・・という前提での書き込みがあったりする。そういう空気には馴染めなかった。


そんな人間にとって2ちゃんねるは居心地が良い場所なのだ。もちろんすばらしい書き込みをする固定ハンドルの方はいる。しかし、それが本当に本人が書き込んだ物かどうかは実はわからない。そして、固定ハンドル以外の書き込みは全て等しく「名無しさん」による書き込みとなって、個々の書き込みについての評価はされるが人格全体的な評価がされることがない。そのシステムは私にとっては非常に居心地が良かった。
世の中にはそういう人もそれなりの数いるはずだ。当時2ちゃんねるでは、馴れ合いを嫌う空気があった。馴れ合いをしたいのなら別の場所に行け、そういう空気があった。殺伐とした言葉の投げ合い。一度きりの接触。ネット上でそんな乾いた関係を持つことを好む人というのは確実にいる。そういう人たちの受け皿が今まで無かったのだ。


さて、話題を変えよう。


最近社会問題、マスコミなどの板に行かなくなってしまったので状況は変わっているかも知れないが、あるタイミングで大勢の「名無しさん」がある方向に向かって一斉に動き出すことがある。これは不思議だ。先導者がいるわけではない。なんとなくそういう空気になるのだ。もちろん空気を作り出すことに長けた人がいることは否定できない。しかし、2ちゃんねるというサイトでは全ての書き込みは等価なのである。なのにみんなが同じ方向に行き、違う方向の人を排除しようとする空気が生み出されることがある。
興味本位で考えるとこれは非常に面白い動きだ。ある新聞社に対して批判的な空気が生まれると、そこを養護する書き込みは全て「工作員」によるものと見なされたりするのだ。
無数の名無しさんによって「レッテル」が張られていくのである。


これは、なにも匿名掲示板というシステム特有の物ではない。昔ながらの口コミもそうだし、さらにいえばマスコミもこの手法を用いている。しかしそれらとはそれぞれ決定的な違いがある。
口コミとの違いは、発言者の信頼性が問われないと言うこと、そして速度である。信頼できない人から聞いた話が大きく広まることはない。また、速度も実際に人と人とが顔を合わせて話さないといけないのでそれほど上がらない。
マスコミとの違いは意図的でないことがあるということだ。マスコミというのは企業である。企業である以上は企業としての統一意識があり、それに沿った形で取捨選択、そして演出して報道を行う。しかし匿名掲示板ではそもそも統一意識という物がない。「2ちゃんねらーの総意」などという物はない。もしあってもそれは幻想だ。そして演出は無いとは言わないが難しい。煽動的な言葉を一つ書けば確実に数万数十万の人の目に触れるなどということはない。その言葉に興味を持ち、あるいは共感し、あるいは反発する人がいなければ、読まれることすらなく流れていくのだ。


匿名掲示板の中で生まれた「流れ」というのは、今までマスコミが作ってきた流れとは明らかに違う。自然に発生したか、卓越したコントロール能力を持つ人が作った流れである。過去の実績、その人個人の物の考え方などは関係ない。関係あるのはコントロール能力だけである。自分の興味のために本人の主義、信条に反する方向にコントロールしていく事を試す人がいてもおかしくはない。人としてどうかとは思うが、そういう能力があることについて、私は素直に尊敬の念を抱く。


無数の「名無しさん」達の間で意識が共有される瞬間というのは確実にあると思う。自分自身そういう経験をしたことがある。(それを感じたのはある企業に対し批判的なことを書くスレなので紹介は避ける)インターネットという冷たいバーチャルな空間において、なぜ熱くなることができるのか。その答えが私の2ちゃんねる論の結論となる。



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