<第六巻発売>:「モラル」



僕がハヤテのごとく!を真剣に読むきっかけになったのは、この作品のギャグ漫画という側面からである。しかし、この作品をそうとらえた場合、何とも言えぬ違和感を感じる部分が多々存在する。今回はその「違和感」の一つ、ハヤテのごとく!本質というよりも、商業的な成功に関わってくる部分について取り上げる。


多くのギャグ漫画では時間は進まない。その異常な状態の一年を永遠に繰り返す。


しかし、この作品では、引きこもりがちで「漫画バカ」のお嬢様、三千院ナギを、彼女の執事となった綾崎ハヤテが外の世界に連れ出すというモチーフも柱になっている。ハヤテ君はナギちゃんを学校に行かせ、スポーツの楽しみを教えようとしている。
三千院ナギという少女は、自分が望めば一生引きこもってマンガやゲームに時間を費やしても、なんの不自由もない生活をすることが十分可能な財力を持った登場人物である。しかし周りの人間はそこからなんとか脱却させようとしている。そして実際に彼女は徐々に外の世界に踏み出そうとしている。このことは現実社会で考えれば当たり前のことだが、ギャグ漫画の世界としては異様である。彼女が今の世界にとどまり続けることによって、今という時間の中で生きることによってさまざまなネタを生み出すことができるのだから。
ナギちゃんを今の状態から脱却させようとするモチーフ、それはギャグ漫画のモチーフではない。むしろそれに反する物だ。ギャグ漫画は基本的に現実社会ではあり得ない状況を描き、現実社会では起こりえない笑いを作り出す物だと考えている。しかしこの作品では彼女が身を置く異常な世界から、より一般的な世界、もちろんフィクションの中なので現実世界と全く同一というわけではない世界に登場人物を引き戻そうとしてる。


ナギちゃんの話を離れてハヤテ君の話に移ろう。
彼の場合、物語冒頭で親に捨てられている。そして営利誘拐という犯罪を犯すことを決意する。しかし、人の良さが災いし、その犯罪があっさりと失敗した後、彼は自ら死を選ぶことを決意している。
その後も彼は作中で何度も死を覚悟している。彼の死の覚悟は普通のギャグ漫画的な表現とは違う。2004年のクリスマスイブにナギちゃんを誘拐するという犯罪が失敗したとき、彼は自ら死を決意した、その事実が背後にあるのだ。裏設定ではなく読者に明示されているのだ。
しかし、ハヤテ君は自分の生きる意味を見つけようともがいている。三千院帝に看破された「無意味な人生」から脱却しようとしている。そのためにナギちゃんを守り、また、ナギちゃんを外の世界に連れ出そうとしてる。
ナギちゃんを外に連れ出そうとしているのは完全無欠な人間ではなく、彼自身現状から脱却しようともがいているハヤテ君なのだ。




さて、話題を変えよう。


次に以前も取り上げた話であるが、ナギちゃんが他の登場人物を呼ぶ際の呼称についても考えてみたい。双剣士様がとりまとめていらっしゃるハヤテのごとく!呼称一覧表を参照しながら読んで頂けるとわかりやすい。
ナギちゃんは傍若無人のお嬢様として作中では描かれていることが多い。ところが、相手を面と向かって呼ぶときの呼称は礼儀正しいのだ。呼びつけで呼ぶ相手は、今のところ同級生、血縁者、使用人に限られている。僕はナギちゃんが桂先生のことを「先生」と呼ぶ場面を見て非常に違和感を感じた。この作品での設定を考えると「雪路」と呼び捨てにする方が自然なのではないかと感じたのだ。しかし作者は「先生」という呼称を使った。ナギちゃんはそういう女の子なのだ。




ここまでに挙げた要素をまとめて考えると一つ言えることがある。


この作品は、その外見からは想像しずらいが、既存の価値観を持つ社会から受け入れられる素地があるのだ。いわゆる「大人」の「有識者」からの抵抗を受けづらいのだ。このことは、「ハヤテのごとく!がかつてないくらいの規模で商業的に成功する」という僕の予想を支える根拠の一つになっている。
作品としての価値、漫画としての価値から考えれば些細なことである。しかし、その些細なことが理由にされて、優れた作品が世の中で広く受け入れられないということはよくある話だ。ある作品に影響を受けたことが要因となって犯罪が起こる。するとその作品、作者がたたかれる。ある作品での描写が原因となって既成の価値観を持つ人々から見ると逸脱した行動を子供が取るようになる。するとその作品、作者がたたかれる。それは作品のもつ価値を完全に無視した話である。むしろ社会に何も影響を与えない作品よりも良かれ悪かれ影響を与える作品の方が「作品としては」優れていると僕は考えている。
しかし「子供に見せたくない」という些細な理由だけで不当に低く評価される作品は数多く存在する。逆に「教育的によい」という些細な理由だけで一時的に不当に高く評価される作品も存在するように思われる。作品自体の価値ではなく社会的に受け入れられるかどうか、それは、僕にとっては残念なことなのだが、商業的な大成功を得るためには避けて通れないハードルなのである。


ハヤテのごとく!という作品の世界は、それが虚構の、しかも骨格の一つとしてギャグ漫画という現実から逸脱した方が表現がしやすいカテゴリーを持っているにも関わらず非常に保守的なのだ。
この作品のマニアックなパロディと萌え要素を排除して考えると、異様なまでに保守的なのである。そう、今回述べたかったギャグ漫画としての違和感の一つ、それは作品全体が現実社会の保守的な価値観「モラル」に支配されているところにある。




引きこもっていてはいけない、学校へ行かなくてはいけない、試験を受けなければ入学できない、試験の成績が良くなければ進級できない、壊した物は直さなければいけない、目上の人には敬意をはらわなければいけない、仕事はしなければいけない、死んではいけない、そして、借りたお金は理由を問わず返さなければいけないのだ。




いわゆる「大人」の「有識者」がこの作品を、引きこもりや虚構の世界に耽溺するオタク達が生まれた現代社会へのメッセージととらえるかもしれない。さらには、作者が自分自身のそこから脱却した経験を作品に載せて描こうとしている、そう断言する人もこの先現れるかもしれない。








しかし、それは違うと僕は考えている。


ギャグ漫画というのは多くの場合、普通の生活をしていた人が異常な世界に放り込まれる、逆に異常な世界の人が普通の世界に放り込まれるというモチーフを持っている。そして普通の世界の住人と異常な世界の住人との「ずれ」で笑いを作っていく。そしていつのまにか普通の世界に住む人が異常な世界になじんでいくのだ。






この作品の場合はそれが反転しているのではないだろうか。






つまり、異常な世界の住民達が普通の世界になじんでいくというモチーフなのではないだろうか。この作中で平凡な生活を送ってきた登場人物達の中に土足で踏み込むのはナギちゃん達ではない。ハヤテ君、そして西沢さんなのではなかろうか。




西沢さん、彼女の存在はハヤテのごとく!で本当に大きい。彼女がいるからこの作品が異様な輝きを持つことになったと言っても過言ではないと思う。
まず、作者、畑健二郎さんの紹介によると彼女は「普通の女子高生」である。しかしその普通さこそ、この作中、さらに誤解を恐れず言えばどの漫画でも異常だということがある。
しかしそれだけではない。
彼女はあらゆる面でこの作中では異常なのである。西沢さん初登場の時、彼女が先生を殴るという描写がある。少なくともここまででは、このマンガの中では逆に違和感がある描写なのだ。ギャグ漫画としては全く違和感ない表現なのだが、今のところ通して読むと他にそういう描写がないのである。あのひどい桂雪路先生ですら実際に危害を受けるという場面は描かれていないのだ。彼女は生徒に呼びつけにされたりバカにされてはいるが、それはあくまでも「慕われている」という範囲内でのことだ。
また、ラブコメとしてこの作品をとらえた場合のヒロインのライバルという重要な役割を持つ登場人物として設定されているにも関わらず、ヒロインとの二度目の対面で、その圧倒的な戦力差をはっきりと自覚し、負けを悟っているのである。しかしそれでもあきらめない、負けを認めないのだ。それがためにハヤテのごとく!という作品に、今でも「ラブコメ」化するという要素が残されている。いったいどこが普通だというのか。


さて、話を戻して西沢さんの「普通の女子高生」という部分に焦点を当てる。
もし、今回の文章の前半で述べたような意図を本当に作者が持っているとしたら、社会適合という面でいろいろと問題をかかえているのは西沢さんのポジションの人間であるべきだと思っている。
ハヤテ君、ナギちゃん、そして他の登場人物のほとんどが超人的な能力を持っていて、個別の要素、例えば恋愛の感情などでは感情移入することがしやすいが完全に同一化して「僕も、私もああならなければ」とは思えない設定なのである。本当に作品に前述のようなメッセージを込めているのなら、比較的簡単に感情移入できる登場人物に問題を抱えさせるはずである。


では、なぜ畑さんがこういう保守的な世界を目指すモチーフを選んでいるのか。僕はこう考える。

  • 保守的な世界こそが現代社会ではより虚構に近い



畑健二郎さんは無意識かもしれないが、そう感じているのではないだろうか。












そう考えると、ここでもう一度世界観が反転する。






ハヤテのごとく!という作品は他の多くの作品同様、普通の世界に異常な世界が浸食するというモチーフを持っている。しかし、逆なのだ。普通の世界が「ナギの世界」であり、異常な世界が「歩の世界」なのである。






引きこもっていてはいけない、学校へ行かなくてはいけない、試験を受けなければ入学できない、試験の成績が良くなければ進級できない、壊した物は直さなければいけない、目上の人には敬意をはらわなければいけない、仕事はしなければいけない、死んではいけない、そして、借りたお金は理由を問わず返さなければいけない、こういう制約がある世界こそ、畑さんが構築した世界の中では「虚構」なのだ。








ところで、この作品が将来的にも人気を保っていられるのか、無事に、読者の僕らは無事では済まないと思っているのだが、トゥルーエンドを迎えることができるのか。それを考えるとどうしても心配なことが一つあった。
それは、初期から作品を支えてきたマンガやアニメ、ゲームを愛するいわゆるオタクのファンが、作品が大きく物語寄りに振れたときに離反するのではないかという懸念だ。それは、おそらく作者または編集サイドは気づいていると思う。だから

  • 一般人を置き去りにする

などという言葉を一般人がたくさん読んでいる一般漫画雑誌の中で書いてしまうのだ。あの言葉は一般読者を拒絶する物とは思わない。むしろオタクの読者に向けて「私はそちら側の人間でこの先も変わりません」というメッセージを届けようとしたように思えるのだ。
この作品で描かれているパロディは、比較的一般読者に近い僕の目からから見ると「わからないけどギャグなんだろうな」程度で読み流せるもののである。決して拒絶されたとは思わない。


僕は決して一般人ではないが、残念ながら特にマンガ系の切り口ではオタクでもない。一般人よりは多少知識があり(ここ最近で勉強したというのが大きいが)しかしオタクと呼ばれるには知識が貧弱な人間である。だから逆に両方の立場に立つ人の気持ちがわかるような気がしている。もちろん気がしているだけという危惧はあるが・・・
ハヤテのごとく!という作品のターゲットとして作者が考えていたのは本来オタクといわれる層だと思われる。しかし、編集サイドはこれが一般人にも受け入れられるということを理解し、トラブルが発生するリスクがある危険なパロディを多用するというスタイルの新人漫画家の作品を連載しはじめたのではないかと考えている。
少なくとも僕がこの作品に出逢ったあのとき、マインドは限りなく一般人に近くなってしまっていたと思う。それでも受け入れることができ、そして「はまって」しまったのだ。






僕はハヤテのごとく!という作品は二つの面で歴史に残ると考えている。

  • 1.以降の物語の作りを変える作品として文学史に残る
  • 2.商業的に今まで考えられなかったような大成功を納め出版史に残る

大げさだと思う方の方が多いと思う。僕自身誇大妄想と思われるのが落ちなのでこんな事は書かない方が良いとは思う。
1については、「間違え」という判断は簡単にできるが「正しい」という判断はなかなか難しい。それこそノーベル文学賞の対象に「マンガ」が含まれて、その時の判断材料としてこの作品が大きな役割を果たすとか、受賞対象になってしまうとかいうことでもあれば別だが、可能性は0ではないがものすごく低い。
しかし2についてはある程度数値目標を上げることができる。予想があっていたかどうかを第三者が判断するために数字を作ればよい。
出版業界の人間ではないので、どのあたりに「ありえない数字」があるのかが正確にはわからないのがつらいのだが、とりあえず、今は第一チェックポイントとして以前コメントにも書いた数字を書いておこう。


十巻発売で累計一千万部(各巻百万部)
※ただし、アニメ化、ゲーム化など無しで


それほど高くないハードルだと思うのは素人のせいか実際そうなのか。僕としてはこの次に用意している数字から見ると非常に堅い予想である。
様々な理由からアニメ化、ゲーム化は十巻発売以降と読んでいるので、もしそれが十巻発売までに実現した場合もこの予想ははずれとする。






今日の文章のテーマ、「モラル」という要素は、この作品が商業的に成功するためには欠かせないとまでは言えないがあった方がよい要素であると思う。作者の意図がどうであるのか、それはわからない。しかし一般の読者から見ると「目の敵にしづらい作品」になっているのだ。せっかくそういう要素を持っているのだ。一人でも多くの人にトゥルーエンドを読んでもらうために使わないのはもったいないのではないだろうか。

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