15巻感想 他作品との比較「秘密開示型」と「因果応報型」

魔法先生ネギま!(15) (少年マガジンKC)

魔法先生ネギま!(15) (少年マガジンKC)

まずは15巻の感想から。
これ、感想書くの難しいですね。まさに冒険活劇で続きが楽しみって以外に書くことがないです(笑)。それでも無理矢理。
落書きが戦う漫画ってサンデーで一時期やってたよね。すぐに見なくなったような気がするけど。
タイムマシンという物語的なやっかいな代物を登場させてどうするのかと思ったらこうするわけですか。なるほど。伏線も万全。で、ここから戻っていくわけでしょ?きっと。どうやって戻るのかな?わくわく。
正直説明不足の感は否めないと思いますが、後述しますけど説明を詳細にするとこの作品の作品性が失われると思うのでやむを得ないところではあると思います。それに、ここにたどり着くまでに30巻超えてしまっているだろうし。
週刊連載の漫画という制約がある発表の場でこれだけの作品を書くってすごいですね。
追記:そうだ。ネギま!って2ch語を結構使ってますよね。ハヤテ以上かも。ネギまスレは出入りしていないのですが、もう仕様になっていて誰も気にしないんでしょうか?


ところで、俺がここに読書感想文を書くときには、極力他の作品を引き合いに出さないように気をつけています。これは、プロの評論家の方の書評にも、ブログなどで他の方が書いた書評にも言えることですが、主に同一作者の作品を持ち出して論じられている事が多いです。一つの本を読むのに複数の本を読んでいて、なおかつ別の本に対して筆者と同じ感覚を持つことが求められてしまいます。「物語の消費者」としてこれはつらい。俺を含めた一般読者は、その作品が読むに値する面白い作品なのかどうか、あるいは自分が読んだある作品を他の人がどう感じているのかということを知りたいと思うんですよね。
そこに、別の作品を持ち出されると、しらけます。たまたま自分が読んでいて自分が同じ感覚を持っていればともかく、そんなことはめったにないわけですから。
とはいえ、実際自分で読書感想文を書いてみると、他の作品を引き合いに出した方がより楽に書けるし、より細かいところまで突っ込んで書けるということがよくわかりました。俺の場合は一冊の本から普遍的なことを書こうとする傾向が強いんで、他の作品を持ち出すことによって説明を省けるから「楽に書ける」という要素が強いな。他の人がどうかはしらんけど。
今日は、宣言した上で他の作品を引き合いに出して「魔法先生ネギま!」を語ってみようと思います。今日の文章で比較する作品は主に二つ、「頭文字D」と「ハヤテのごとく!」です。どちらも他の作品に比べれば俺が読み込んだ漫画で、かつネギま!と比較しやすいという特徴があります。
果たして楽に書けるのか??


文体チェンジ


さて、まず「魔法先生ネギま!」と「頭文字D」を比較してみる。実はこの二つの作品は非常に似ているのだ。オヤジコンプレックス、バトル、それに絡んだ恋愛模様、そっくりである。この二作に限った話ではない。いわば物語の王道といってもいいだろう。もちろん違うところも多数ある。「魔法先生ネギま!」では、初期に主人公が敗北を多数経験している。「頭文字D」では、明確な敗北はめったにしない。しかし勝負では勝ったがバトルでは負けたというような精神的な敗北はしている。「頭文字D」は、圧倒的に戦力で劣る方がより強大な敵に勝つという、日本人の心にしみこんだ判官贔屓的なところを刺激してくれる。そして、結果的に勝つ。単純だが面白い。ネギま!も才能(魔力)はあるが弱い子供の主人公が、より強い敵に立ち向かっていくというこれまた単純だが面白い構造を持っている。
ネギま!で若干難があるとすると、敵が敵らしくないところだろう。敵にも思うところがあり、「どう考えてもとどめ刺すだろう」というところでとどめを刺さない。逆にネギも敵に甘い。これは子供向けのお話の王道ではあるのだが、すれた読者になってしまうと鼻につく。
さて、「魔法先生ネギま!」と「頭文字D」の当たり前すぎる相違点について最後に書くことにする。
それは「ファンタジーか否か」である。
頭文字D」で描かれる世界。それは読者が追体験できそうな世界である。作中で描かれるほどでは無いにしろ、実際あれに近いことができる人は世の中に存在する。少なくとも練習を積めばできるのではないかと思わせる。
それに比較して「魔法先生ネギま!」はどうだろう。魔力というファンタジックな設定がある以上、ある程度の年齢を迎えた子供にとってはリアリティがない。そのリアリティがない世界でリアリティがあるバトル、物語が展開される。こらがファンタジーだ。
想像の世界を描くという意味で、ほぼ全ての物語はファンタジーであるといえる。しかし、読者が追体験できそうに思えるか否かというところにその線引きを持っていっても良いのではないか。




さて、続いて、「魔法先生ネギま!」と、まだ読み始めて一年しか経っていないがほぼライフワークと化している「ハヤテのごとく!」を比較してみよう。
まずはキャプチャーしたコマを二つずつ挙げる。




ネギま!の方は前に他のサイトでも紹介していたコマである。1巻で描かれたコマが14巻で別の角度から別の意味合いで描かれている。
ハヤテの方は単なる回想シーンである。マラソン大会とその後でのヒナギクとハヤテの関係などもっと良い例があるのだが、1巻から引用したかったのとコミックス化されていない範囲だったりしたのでここを選択した。
この二つを比較するといろいろとわかることがある。


まずは本題に関係ない部分から挙げる。

  • ネギま!の方がハヤテよりコストがかかっている(新たに書いている)
  • ネギま!は1巻の絵を描いた時点で14巻で何が起こるかというイメージが作者にあったが、この場面についてはハヤテにはそれはなかった

この2点をとりあげると、どう考えても漫画家赤松健さんの方が漫画家畑健二郎さんより上である。ベテランと新人という比較するには厳しい組み合わせではある。
しかしもう一点、物語的に決定的に違うところがある

  • ネギま!では読者がこれに気づいたとき「ああ、あれはこういう意味合いだったのか」と思うが、ハヤテでは「ああ、あんなこともあったな」と思う。

今回取り上げたこの一点だけで論じるのは乱暴だが、この感覚は全体通しての物だ。
ネギま!の物語展開は「秘密開示型」である。読者が「なるほど、この人物のこの行動にはこういう意味があり、こういう裏の設定があったのか」と思うことによって物語に引き込まれていく。
それに対しハヤテは「因果応報型」である。登場人物がある時に取ったある行動がその後の物語展開の中での登場人物に影響を与えていく。そしてそれがまた別の登場人物へも影響を与え…というように続いていく。
※ここでいう因果応報とは悪いことをすると報いを受けるという意味合いではなく、何か行動を起こすとそれは後に影響を与えるという意味合いです。詳しくないのに仏教用語を使うことには抵抗がありますが良い四文字熟語が思いつかなかったのでこの言葉を使いました。原因結果型という言葉では味気なかったので。もっとわかりやすい言葉があったり根本的に意味を取り違えていれば置き換えます。
*1


魔法先生ネギま!15巻の感想で書いた「説明不足感」は、この物語が「秘密開示型」である以上やむを得ないと感じている。今回唐突にネギとパルとが仮契約していることが明かされているのだが、もしかするとそこで一悶着あったのかもしれない(あるいはなかったのかもしれない)という興味が起こる。
もし、これをハヤテのごとく!のように「因果応報型」で描くと大変である。基本的に全ての登場人物の行動は説明できる物でなければならない。そしてそのほとんどは作中で説明されなければならない。
サンデーとスピリッツを読む限り、漫画には「秘密開示型」の方が多いように思われる。スポーツ物は大概「因果応報型」に分類できるように思える。しかし、試合結果が登場人物にも読者にもわからないという意味では「秘密開示型」と言えないこともない。小説でも推理小説をはじめ「秘密開示型」は数多く存在する。「秘密開示型」と「因果応報型」、どちらが優れているという事はないと思う。どちらにも優れた作品はあるし、どちらにも駄作はある。そして多くの場合その両方を組み合わせて物語は作られている。
余談ではあるが最近完結した「まほらば」は「秘密開示型」と「因果応報型」が高次元で融合している。あの作品の魅力はむろんそれだけではないのだが、そのバランスも魅力の一つになっているのであろう。


むろん、ネギま!とハヤテを乱暴に二つのカテゴリに分けるには無理がある。両作品とも「秘密開示型」と「因果応報型」の両方を、時と場合に応じて使っている。しかし、作品全体の流れを見るとどちらに属するか、明確に違いがわかる二作だ。


もう一つ、この二つの作品の共通点と違いを述べよう。
共通点、それは両者とも暫定最終回が用意されているということである。ネギま!が連載開始当初人気が不発だった場合どうなったか考えてみるといい。おそらく31人の少女たちは進級することなく終わっていたであろう。エヴァンジェリンは活躍することなく終わっていたし木乃香の実家の秘密も開示されないうちに終わっていた。両作品とも連載開始直後に打ち切られてもきれいに終われるような構成を当初から取っていた。今となっては普通に読めているが、連載を開始した当初は「実験的な作品」というような認識を、作者も、編集も持っていたのではないか。
次に相違点である。ハヤテのごとく!には物語が終わるXDayが存在することが明らかになった。では魔法先生ネギま!はどうなのか。ネギま!にはXDayは無いと考えている。XDayというよりも、ある秘密が開示された時点で物語が終わる、そういう構造である。もちろんだいたいの目安はあると思う。ある日付を過ぎると面倒なことになるというのはあると思う。しかし、重要なのは日付ではなく秘密の開示である。「秘密開示型」の場合は引き延ばしも可能である。別のもっと大きな秘密を設定すればよいのだから。しかし、その結果があまり芳しくないことは経験的にわかっているところでもあるので難しい。


どうしてもハヤテの話を書きたがってしまうわけだが、今日はネギま!メインの感想なので「秘密開示型」の物語としての魔法先生ネギま!の話を最後に書いておく。
15巻感想でも書いたが、タイムマシンというのはやっかいな設定である。この作品を読む場合、タイムパラドックスなどというややこしいことは考えない方が楽しめるようなのでまだましなのであるが、それでも読んでいて頭が混乱するし面倒だ。しかも開示されるべき秘密がそこに絡んできたりしてしまうわけだから。
以前書いたように「魔法先生ネギま!」という作品は「ナギの呪縛」によって成り立っていると考えている。そのナギの秘密についてどうしても一つの可能性を捨てきれない。
それは、
ナギはネギではないか?
という疑念である。
タイムマシンが登場することによって可能になるこの設定、いろいろな物が説明しやすく、かつタイムパラドックスを無視すれば物語がかなりきれいに終われる。成長した最強の男がかつての弱い自分の成長を見届けるなんてなかなかにそそられる展開ではあるのだがご都合主義過ぎると読者は思ってしまうのだろうか。


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結構長くなりましたが直打ちで書いてました。当初予定からはずれまくりです。『「秘密開示型」と「因果応報型」』は書きながら考えて思いついた言葉なのでイマイチ思い入れも無いし、もっといい表現があるんじゃないかと思うし…
せっかく長くなったので、文体チェンジ以降「私」「僕」「俺」などの一人称を使わない文章に挑戦してみました。他のサイトの文章を見ると一人称使ってないところが多いように思えるのでやってみたかったんだなぁ。意識してやってみると意外に難しいね。あくまでも俺の主観を書いているわけだから、一人称を使いたくなる場面が多いよ。


今回はネギま!ファンからもハヤテファンからも反発食らうことは覚悟して思ったことを比較的素直に書いてみました。いかがでしょうか?頭文字Dファンからの反発は無いと思いますが、関連コンテンツがほとんど無いので、そのキーワードでたどり着いた方には申し訳ない。頭文字Dとかエンジンとか4G61とかでサイト内検索してみてください。


カテゴリ 読書感想文
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ではでは。

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*1:因果応報は文中注でも述べたように仏教用語が出典です。秘密開示は京極夏彦氏の小説中の言葉が出典です。私の造語ではありません。