『オシムの言葉』 とにかく読んでみよう

流行りの本。買うときには気づかなかったのだが青少年読書感想文全国コンクールなる物の高等学校の部課題図書に選定されているとのことである。
この本が課題図書となる意義が今ひとつわからない。読んでみてこの本は読書感想文を書けるような種類の本ではないと思った。そして、その読書感想文を比較して評価することなどできないと思った。
下世話な話しであるが、課題図書を見ると同じ出版社の本は1冊しか選定されていない。決してそれだけが理由ではないと信じたいが、ある一定の需要が見込める課題図書の選定にもその手のパワーバランスが絡んでいるのだろうか。


と、書いては見た物の、なにをどう考えてもこの本は良書である。オシム氏が日本代表チームの監督になり再ブレイクした感があるが、そんなことは関係ない。とにかくいい本だ。どうしてもっと早く読まなかったのか、悔やまれる。
そして、そういう良書の感想というのは非常に書きづらい。なんというか、どこかを切り出して自分の考えを書くということをしても、決してオリジナルのコンテンツを越えられない、他人が読んでそう思うのは当たり前なのだが、自分自身の感覚としてもこの本の内容から一歩も踏み出すことができないというような無力感のようなものがある。


今回は、この本の内容の極一部を箇条書きし、それに対して自分が思ったことを書いてみる。そう、毎週水曜日にやっているポイント解説みたいな感じで書いてみる。

ジャーナリズム

ネット社会という幻想に対していろいろ文句をつけることもあるが、私は基本的にはマスメディアよりネットで発言する普通の人の言葉を信じている。言い方を変えると「ジャーナリズム」に対して不信感を持っている。真実を語ろうとしていることはわかる。しかし、その元となる「事実」を正確に伝えてくれているのか。信用できない。
ところが、そんな私でも、この本の著者は信用できると思った。なぜ信用できるのか。それがよくわからないのだが信用できる。著者は取材対象を深く理解して、我々に事実と真実を伝えてくれているのではないか。そう思えてならない。
答えを予測して質問をする。その結果、予想した答えと同じ言葉が返ってきても、違う言葉が返ってきてもそれを読者に伝える。その上でその言葉をジャーナリストである著者がどう受け取ったのかを読者に伝える。ジャーナリズムというのはそういうものなのか。もし、そうならば、偏見は改めなければならない。

現代史

立ち読みした時、この本はサッカーの本だと思っていた。しかし、現代史の本でもあった。それ以上のことはこの本を読んで感じてもらいたい。日本という国に生まれ、この国で生活している以上、私には何も語ることができない。

通訳

言葉を訳せばいいだけではない。情報として知ってはいたが生々しくえがかれていた。そして、オシムという監督は選手だけでなく通訳も鍛える。読み応えがあった。

オシムの言葉

怖い。相手に恐怖心を抱かせるほど頭がいい。切れる。発する言葉に隙がない。突っ込みどころがない。なのにユーモアがある。恐ろしい人だ。
本に収録されたりWebサイトに公開されたりする言葉は印象的な言葉だけなのであろう。多くの言葉の中から「突っ込みどころがない」言葉をセレクトしてはいるのだろう。しかし、オシム氏が突っ込みどころ満載の言葉を発したとする。他の言葉を知っている人はどう思うだろうか。「この人は自分がどこを突っ込んでくるのかを見て、自分という人間がどういう人間かを判断しようとしているのではないか」と思えてしまう。たぶん。隙がない人が隙を見せたとき、その隙には意図があるように見えてしまうし、実際意図があることが多いのだ。
もし仮に自分が何でもできる人間だとしてみる。サッカー選手だとした場合にはたぶんオシム氏に指導してもらいたいと思うに違いない。しかし、もしジャーナリストだとしよう。オシム氏にインタビューしたいとは思わないかもしれない。インタビューはしたい。言葉を聞きたい。でも怖い。自分でも気づいていない弱さを露呈しそうで怖い。それで自分が成長できるとしても怖い。その葛藤にさいなまされると思う。




読むべきだ。読むのに時間はさほどかからない。むしろ、読んでから時間がかかる。そういう本だ。
私はこの本を一度しか読んでいない。読み返した方が良い感想が書けるのが普通なのでもう一度読もうかとも思った。しかし、再読した結果感じたことは自分の心の中だけでとめておくことにした。自分の感想を人に読んでもらうような種類の本ではない。それぞれの読者がそれぞれの感慨を胸に刻み込む、そういう種類の本である。


カテゴリ 読書感想文
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