ずれている私

恥をさらす記事になるかもしれないです。筆者の底が割れて読者も減るかもしれません。でも正直に書きます。
Something Orange - 〈ネギま〉と〈デスノ〉に見る独裁者の孤独。
読者としての私の主観では、「現実社会への問題提起」などという物は、物語的に意味がないんです。虚構世界はあくまでも虚構世界であり、その虚構世界をいかに構築しているかというところに興味がある。
昨日書いた記事でも

なんかえらそーなことを書きつつかなり続きが気になっている俺がいる(笑)。いや、この漫画めちゃめちゃ面白いよ。

と書いたように、この漫画自体はかなり好きです。好きな理由はなにか。明確な答えは無いですが、「現実社会への問題提起」を含んでいることが理由ではないですね。物語はあくまでも虚構の世界。その虚構の中で現実では起こりえない出来事が起こることとか、現実では選択することがあり得ない選択がされるというところに興味があるのかも。
あいかわらず書けもしないのに偉そうなことを書きますけどね、作中で登場人物が何らかの選択を迫られるのは当たり前のこと、でその選択自体が現実社会への問題提起をはらむのも当たり前のことなんです。そして、それを読者が見て「面白い」と思うのも当然。むしろ、そういう選択を迫らずに面白い物語があれば、虚構としてはそっちの方が優れていると思っています。
こんな考え方を俺が持っているのは、まだ精神的に不安定だった子供の頃、「現実社会の病巣を鋭くえぐる」事を意図した社会派推理の洗礼を受けているから何だろうな。卒業、というとニュアンスは少し変わってしまうけれど、ある時期を境に*1そういう現実社会を下敷きにした虚構を読んでも面白いと思えなくなってしまった。ざっと流して読んで、「で?」という感想しか持てなくなってしまいましたね。だから、夕映がどんなことをネギに言おうとも「ふーん」とか「へー。でこの先どうなるの??」としか思わないんだろうな。
登場人物に作者の考え方が投影されるとか、作者が読者に伝えたいことが現れるとかそういうこともたぶんあるんでしょうが、たとえ作者は違う考えであっても、登場人物にはある選択をさせるということもあるわけで、虚構内での出来事を現実社会に当てはめて考えるのは危険なのではないかとさえ思っています。その選択が、例えば「幸せとはなにか」「幸せになるためにはどうすればいいのか」みたいな、もう読者にとって千差万別の受け取り方ができるような物であればそれなりに意味があると思います。虚構世界のなかで登場人物がどういう選択をするのかというところに興味は絞られるから。現実社会の問題について登場人物がどういう答えをだすのかなどというのは、物語を読むという観点では私の興味の範疇外です。
登場人物がどういう行動を取るかを決められるのかは作者だけ、それを評価できるのは読者だけです。どんな評価をされようとも虚構の中にいる登場人物には影響はありません。悩ましいのは登場人物を動かす作者には影響を与える可能性はあるということですけど。
夕映の言葉がマガジンでもまだ明かされていないと言うのは意外でした。もしかするとここまでの流れで、私が予想した

「今は超の計画を阻むことに集中し、その後、別の『手段』で超の『目的』をかなえましょう」

みたいなことを言う可能性は無くなっているのかもしれませんね。


16巻の伏線がまだ生きている当たりに、魔法先生ネギま!が秘密開示型の物語であることがわかりやすく現れているなぁ。


しかし、私の読み方は世間一般からずれている。痛感しました。そもそもネギま!を読み始めたのは萌え系の漫画で他の方から進めてもらったからではありますが、実際読んでみて「全然萌え系じゃなくて物語の王道を行っている作品じゃねーか」と思ったわけで。と、過去を振り返るときには証拠となるリンクを貼ることが必要。2006/1/21の記事ですね。3巻まで読んだところだ。

極めて少年漫画的で安心して読める良い作品だと思っています。

夕映がどんな言葉をかけるのかなんて、単なるわかりやすい伏線の一つとしか思ってませんでした。でも、その言葉を受けてネギ君が超との戦いをやめたらかなーりびっくりします(笑)。
物語の消費者の読み方はこの程度の物です。


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*1:たぶん占星術殺人事件筒井康隆全集が原因