読書感想文 筒井康隆著『48億の妄想』 − 48億の妄想を超えて……

とまぁ。つらつら書いてみました。
ことの是非はともかくとして、私はこの小説を高校生の時に読んでしまいました。そして、その後20年に渡って消えることのない「ある妄想」にとりつかれてしまいました。
この小説を読んでから、テレビや新聞で報道されることの受け取り方が明らかに変わりました。これほど極端ではないにしろ、公正な報道とは言っても必ず報道する側のフィルターがかかっているんだ、それを意識できるようになりました。
そして、幸運にも実際にテレビ取材のマイクを向けられるという経験もしてはっきりわかりました。テレビに映る映像、流れる音声は確かに実際に起こったことではあるけれど、決して本当のこととは限らないと言うことが……。


これまでも何度か書いていますが、私はインターネットというテクノロジーが『48億の妄想』を打ち破ることができるのではないかと妄想しています。本当のことを普通に語れる場所ができるのではないかと夢想しています。
しかし、実際には違っているように見えますね。インターネット上に何かを書いて公開している人も、むろんそこには私自身も含まれますが、『48億の妄想』に絡め取られているように思えてならないのです。




私は、暢子になりたい。そう思っちゃいました。本当のことを知った上で知らない振りをする菊池という作家を殺そうとした少年ではなく、暢子になりたいと思ってしまった。
しかし、この本を再読して気がつきました。
それは無理なのかも知れない。
暢子になる、ということは、人間であることを捨てるという行為になってしまうのかもしれない。ある程度の自己顕示欲、自分のことをわかってもらいたいという欲望が無ければ、それはもしかすると人間ではないのかも知れない。


しかし、それでも私は暢子になりたいと夢想します。
『48億の妄想』を超えて……。