読書感想文 小林多喜二著『蟹工船』

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)



別にそうするように意識しているわけではないのですが、自己分析してみると私が書く読書感想文の多くは作り手が何を考えているか?を想像しながら書いていることが多いように思えます。ここで言う作り手というのは著者作者だけではなく、出版社編集者も含んでいます。何を伝えたいのか?だけではなく、どう売りたいのかと言ったところまで含めて考えてしまっています。
そうなってしまう理由は読書的バックボーンにあるのではないかなと自分では思っています。子供の頃から推理小説ばかりを読んでいたが為に、自然と犯人、すなわち作者が仕掛ける罠を考えながら読む癖がついてしまったのではないかなと思うのです。


さて、今日感想を書く『蟹工船』。おそらくは世間には大量の感想やらレビューやらがあふれていることでしょう。最近一時話題になりましたからね。例によって他の人が書いた感想をほとんど読んでいないのですが、その多くは文学史の教科書に出てくるこの作品の背景をベースにしたものになっているのではなかろうかと推測します。
私は、あえてそれを深く考えずに感想を書いてみようと思います。当初無視しようとしたのですが、子供の頃からそう教え込まれてしまっていたので、私の力量では無視することはできませんでした。それはともかく、なぜそんな作者の意図を無視するようなことをするのか?それは『蟹工船』はそれができる作品だったからです。


このような作者の思いを踏みにじるような感想を書くことは決して良いこととは思っていませんが、その裏にどういう思いがあるのかは、この感想文の中で書けるはずです。






蟹工船


この作品の名前は当然知っていました。最近話題になりましたし、そもそも子供の頃文学史の中での位置づけという意味合いで覚えさせられました。そう言う意味では私にとって『蟹工船』と『源氏物語』や『枕草子』は同列です。違うのは『源氏物語』や『枕草子』は教科書の中で、という但し書き付きではあっても、少しは読んだことがある作品であるのに対し、『蟹工船』は全く読んだことがない作品である、という1点です。ほんとに1行も読んだことがありませんでした。
プロレタリア文学という言葉はその本来意味するところはわからなくともなんとなく知ってはいます。『蟹工船』はそれを代表する文学作品であるという事も知っています。この作品にはある特定の思想背景があることも「情報として」知っています。この作品を読む以上は、その先入観から逃れることができません。




ところが、冒頭の数文を読むだけで、その先入観は消えて無くなってしまったのですよ。いや、それは嘘だ。無くなってはいないけれどかなり希薄になりました。驚いた。たまたま私だけがそういう感想を持っただけなのかも知れませんが本当にビックリしました。
かつて、森鴎外の『杯』という作品を読んで「色を感じる」という感想を持ちました。*1
冒頭の数文を読んで、その時と同じような感覚を持ったのです。
蟹工船』の場合は「色」ではなく「におい」です。「香り」ではなく「におい」。漢字で書くと「匂い」ではなく「臭い」。「臭気」と言ってもいいでしょう。
第二次世界大戦前という時代背景での猥雑な港町として描かれている函館の臭いが、それはもちろん私の空想の産物にしか過ぎないのですが、行間から漂ってくることを感じました。
作品の冒頭というのはやはり大事なのだろうなと思います。この描写を読んで「この作者、ただ者ではない」という印象を持ちました。それまでの先入観が上書きされてしまったんです。背景の思想など関係なく、この作品を最後まで読んでみたい、という強烈な欲求が生まれたのです。


作品本編の流れつまりあらすじを記述しているサイトは探せばいくらでもあるでしょう。映像化もされているみたいですし、紙とインク以外のメディアでも手軽に情報として得ることはできるでしょう。
一言で済ませてしまえば、蟹工船に乗り合わせた労働者の群像、ということになるでしょう。
しかし、読み終わってみると、おそらくは作者の意図とはずれているだろうなぁとは思うのですが、この作品の主人公は労働者以外の属性を持つ人物ではないか、と思えて来たのです。


その人物とは、監督の浅川です。


浅川はかわいそうなくらいわかりやすく描かれています。最後のオチでは完全に道化になっています。だからこそ、彼を主人公として考えると、この作品がまた別の意味を持ってくるのです。
労働者を単なる金を稼ぐためのコマとして扱う、人間としてではなく生産するための機械とみなす「資本家の犬」、しかし、彼自身もコマであることに気づいていない哀れな犬、それがこの作品で描かれる浅川です。
その浅川の目線でこの作品を読んでみると、また別の感慨が生まれるのです。


浅川は何を間違えていたのだろうか?


全てを間違えていた、と言ってしまえばそれまでです。履き違えていたと言ってもいいですね。おそらくは作者の意図はそこにあるのではないかと思います。「資本家の犬」なのだから、正しい所などどこにもないのです。
しかし、本当に全てを間違えていたのでしょうか?ちょっとしたきっかけで間違えを正すことができたのではないでしょうか?


話は飛びますが、この『蟹工船』を経営者の目線になって読んでみることにします。そうすると面白いことがわかります。労働者は酷い目にあったけれど、「立ち上がる」ことによって自分たちの力を示すことができた。それによって経営者はどうなったか?損害を出してしまった、あるいは予定していた利益を出すことができなかったんです。この小説で描かれている状況は経営者にとっても決して望ましい物ではないのですよね。だから監督の浅川はクビを切られたのです。
そこで私は思ったんです。
この物語で描かれている状況は、誰にとっても不幸な状況です。労働者にとっても、監督にとっても、船長にとっても、経営者にとっても、さらには国にとっても、一種敵対しているロシアにとっても、誰にとっても不幸な状況です。今風に言うと「誰得」な状態です。この状況を幸福な状況に変える方法は無かったかと、それを考える過程を感想文にすることができるのではないか、そう思ったんです。もちろんそんなファンタジーなことは起こりえないでしょうが、この物語自体、現実を下敷きにしているとしてもフィクションとして世に送り出されているはずなのです。だから、全てがうまくいくという幻想的な光景を思い描く感想だって持っても良いはずなのです。


でも、浅川の元々の資質が変わらないとどうすることもできないですよね。だまされやすくて単純。そして、他人も自分と同じような資質を持っていると思いこんでいる。そこが変わらないとどうにもならないのではないかなぁと私には思えます。
まず、川崎船がや僚船の秩父丸が遭難したときの対応です。ここで人命を優先する判断をすれば、たとえ博光丸での環境がいかに厳しかろうとも、労働者たちのモチベーションは上がったのではないかと思うんですよね。自分たちの命を「大切だ」と思ってくれている。ただ、それだけのことで職場の雰囲気は大きく変わったのではないか、そう思います。
また、船長など、船を動かす人々に対する対応にも同じようなことが言えます。敬意を持って接していれば、本当に苦境に陥ったとき、船員たちは進んで蟹工船の乗組員たちを助けてくれるのではないでしょうか?
労働者たちを競い合わせるという手法はそこそこうまくいったみたいです。これについては具体的なアイディアは無いのですが、もっと長期に渡って有効な競い合わせ方というのが有るように思えます。たとえば瞬間的な業績と長期的の業績、そのどちらにもニンジンがぶら下がっているとか、業績の評価基準が複数あって、それぞれにニンジンがぶら下がっているとか……




このような切り口で書かれたこの小説の感想はあまり多くないのでは無かろうかと思います。しかし、書くことはできる。決してあるわかりやすい一面から描かれている小説ではないから、たとえ作者の意図はそうであっても、文章表現のうまさが逆にそれを許していないから、私にはそう思えます。




作者の小林多喜二は悲劇的な最後を遂げた、ということは私も知っていました。しかし、その理由を誤解していたのかも知れません。自分の持つ思想信条をまっすぐに主張しすぎた、つまりは正直すぎたことが理由なのかなと勝手に思っていました。しかしそうではないのかな、と『蟹工船』を読んで思ったのです。
もちろんそれは私の勝手な憶測です。妄想と言ってもいいでしょう。
もしかすると、小林多喜二がバックボーンとしている思想背景を「危険」とみなすグループは、小林多喜二の才能そのものに畏怖を抱いていたのでは無かろうか、『蟹工船』を読んで私はそう思いました。
面白いんですよ。この小説、面白い。申し訳ないけど娯楽小説です。人が死ぬのに娯楽などとはけしからん?んなこと言ったら推理小説はどうなる!?背景の現実を忘れて、この作品に描かれるエピソードが架空の世界での出来事だと認識して読み進めれば素晴らしい娯楽小説です。面白い上にさくっと読める。私には3時間くらいで読めました。ざくざく読んじゃいました。
こんなに才能豊かな小説家が、自分の持つその能力をフルに生かして「危険な」思想を「何も知らない愚かな」大衆に知らず知らずのうちに植え付けるのではなかろうか?それができてしまうのが小林多喜二なのではないか?
彼が危険視された背景には、そういう考え方があったのかも知れない、私はそう妄想しました。




蟹工船』は文学史に名を残してしかるべき作品でした。読んでみて初めてそれを知りました。その作品や著者の背景を知らずとも楽しめる作品でした。読んだ人全員が同じ感想を持つような単純な作品ではありませんでした。世紀をまたいで生き残るべき作品だと私は感じました。
だから思うんです。
敢えて思想的な背景を排除して書いた感想文もありなのではないかと。それに耐えられないようなヤワな作品ではないのだから、たとえ作者の意図と大きく離れていたとしても、この「作品」にとってはそれはそれで必要なことなのかもしれないのではなかろうかと。


だから私は思ったんです。