3月11日、あれから2年

毎週金曜日、私のケータイには東京多摩地区にあるとある居酒屋からのメールが届きます。週末のおすすめメニューや割引情報などが掲載されたよくあるメールです。
しかし、その居酒屋まで飲みに行くことはたぶんもう二度とないでしょう。いい店か悪い店かではなく、そもそもその街に行く機会がありません。そう、2年前の3月11日、自宅に帰れずに一夜を過ごしたのがその街でした。その居酒屋で妙に高いテンションで酒を飲んでいました。
その日のことを忘れないようにするため、私は未だにそのメールを毎週受け取り続けています。




あれから2年。あの地震から2年。あの地震。この言い方も独善的だと思います。おそらく関西に住んでいるある年代以上の人にとっては「あの地震」というのはあの地震であるはずだし、東北地方でも日本海側の海沿いに住んでいる人たちにとってはまた別の地震を射すことになるだろうし、新潟県に住んでいる人にとっても、奥尻島に住んでいる人にとってもそれぞれ別の地震を指す言葉になるはずです。
東京近郊に住み、生活の基盤を置いている私にとっては、あの地震というのは2年前に起こった地震を指すというだけのことです。


正直、未だに信じられないですね。あの規模の地震があそこで起こったんだなぁと。理性では直ぐに状況を把握したつもりではあったんですが、やっぱりね、信じられない。人間は知恵を使って自然を知り、ある程度はコントロールしているつもりになっているけれど決してそんなことはない、それは思い上がりであるということを改めて認識しました。
前にも書いたけれど、私は自分が生きていることに違和感を持ってるんですよ。あの地震をあの至近距離で経験しても生き残る可能性は高いけれど、死ぬ可能性も少なからずあったはずだと。しかし、現実を見ると、自分が生活の基盤としている地域で亡くなった方は非常に少なかった。なにより、私自身が今まだ生きている。
マグニチュード9の日本海溝震源とする地震というのはそれほどまでの感想を抱かせるのに十分巨大な自然現象でした。


人々を襲った巨大な自然の力。その中でもより強烈に、力に任せておかまいなしに人の命を奪ったのは津波という種類の災害でした。あがなうすべがない。逃げることしかできない。必死に逃げたとしても逃げ切れない可能性だってある。それが津波
人間が示したささやかな抵抗もろとも飲み込んだ津波
あの災害ではそれが克明に動画として記録されました。1分に満たない動画の中に、本百冊を費やしても記録することができない情報が記録されていることだってあるかもしれません。これからも人間は自然に対してささやかな抵抗を続けていくことでしょう。今回残された記録はその抵抗をするために何をすべきかを検討する上での重要な資料になるはずです。


そして、原発事故。
それに関しては未だ自分の中で整理はついていないのですが……。
なぜ福一だけだったのか?という疑問だけは時々考えています。
女川や福二はなぜ無事だったのか。
単純に考えると、できた時期ということになるのでしょうね。古いインフラは新しいインフラよりも一般的に脆弱であることが多いです。その古いインフラをだましだまし使っていたつけが回ったのと言うことなのかなという想像をすることはできます。
実際に事が起こった場合の被害まで考えた場合に原子力発電という仕組みは現状の技術でコスト的にペイできるのか?という疑問を持っています。
科学技術の進歩のためにある程度の見切り発車は必要だ、という考え方は持っています。それによって失うことも多いですが、得るものも多いから。なのですっきりと割り切ることはできない。自然をコントロールすることは人間には難しい、そのことは今回の災害を見ても明らかです。コントロールできるという過信、傲りこそが自らの命を危険にさらすということも明かです。しかしそれでもコントロールすることを目指すのは無駄ではない、と思いたい。
原子力もいずれは思うがままにコントロールできるようになるのではないか、そういう夢は持ち続けていたいのですよ。自分では叶えることができない夢ではありますけれど。




未だに避難しているみなさん、大事な人を失ったみなさん、そしてなによりも命を奪われてしまったみなさんに比べればちっぽけではありますが、私自身もあの巨大な力によって影響を受けました。悲しいかな、おそらくは私が生きている間にあの時の経験が生きる時が来ます。それこそ運がよければ生き残れるというレベルの災害がかなり高い確率で生活の基盤としている地域を襲うはずです。
自分の命を救うのは自分。最後はそこに行き着きます。自分の大事な人の命を救うことができるのも自分。後から他の人の責任を問うことはできても失われた命は決して戻ってくることはありません。